駅の個室トイレの前で、長い列に並んでいた。
朝の通勤時間帯だった。
改札の近くにあるトイレはいつも混む。
この日も、個室トイレの前には十人近い列ができていた。
しばらく待って、ようやく自分の番が近づいてきた。
次が空けば、やっと入れる。
そんなタイミングだった。
そのときだった。
突然、目の前に一人の男性が現れた。
顔色が悪く、明らかに焦っている。
今にも泣きそうな顔だった。
男性は私の前で立ち止まると、手を合わせるようにして言った。
「すみません……本当に、漏れそうなんです」
声は震えていた。
「先に入らせてもらえませんか。お願いします」
周りの人もその様子を見ていた。
私は一瞬だけ迷った。
確かに、列には順番がある。
でも、その人の顔を見た瞬間、答えは決まっていた。
「どうぞ」
私はそう言って、横にずれた。
男性は何度も頭を下げながら個室に入っていった。
その姿を見ながら、私は心の中で思った。
まあ、こういう日もあるよな。
今日はちょっといいことをしたかもしれない。
そう思った、次の瞬間だった。
後ろから怒鳴り声が飛んできた。
「ふざけんなよ!」
振り返ると、列の後ろにいた男性がこちらを睨んでいた。
「お前にそんな権利あんのか?」
周りの空気が一瞬で変わった。
私は何か言い返そうかと思った。
確かにルールからすれば、順番を変えたのは事実だ。
でも、さっきの人の顔を見れば、事情は明らかだった。
「うるせぇ、本人が限界だって言ってるだろ」
そう言い返してやろうかとも思った。
だが、ここは駅のトイレ前。
朝の混雑した時間。
ここで言い争いになれば、余計に周りを巻き込んでしまう。
私は一度深呼吸をした。
そして何も言わずに、列から離れた。
静かに最後尾へ歩いていく。
まあ、仕方ない。
自分が譲ったんだから、最後に並び直すのが筋だろう。
そう思って列の最後に立った。
すると、さっき私の後ろにいた男性が近づいてきた。
年は四十代くらいだろうか。
スーツ姿で、落ち着いた雰囲気の人だった。
彼は少し笑いながら言った。
「今の、いいことしましたね」
私は思わず驚いた。
「いや……どうなんですかね」
そう答えると、彼は首を振った。
「いや、あの人本当に限界そうでしたよ」
そして少しだけ声を落として言った。
「さっき怒鳴ってた人、ああいう人なんでしょう」
私は苦笑した。
すると彼は、少し考えるような顔をしたあと、こう言った。
「じゃあ、俺も最後尾に並びます」
私は思わず聞き返した。
「え?」
「あなたが譲ったんだから、本当はあなたがこの位置ですよね」
そう言って彼は、私の後ろに立った。
その様子を見ていたのか、さらに後ろにいた若い男性が声をかけてきた。
「じゃあ、自分も後ろ行きます」
気づけば、列が少しだけ動いた。
さっきまで私がいた場所には、誰もいない。
その代わり、私の後ろに二人並んでいる。
私は少しだけ胸が温かくなった。
数分後、トイレのドアが開いた。
さっきの男性が出てきた。
顔色はかなり戻っていた。
彼は列を見て、一瞬驚いた顔をした。
そして私を見つけると、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
私は軽く手を振った。
「大丈夫ですよ」
そのあと、列は何事もなかったようにゆっくり進んでいった。
怒鳴っていた男性も、もう何も言わなかった。
結局、誰も揉めることなく、全員が順番にトイレを使うことができた。
たいした出来事じゃない。
ただ、駅のトイレで少し順番が動いただけの話だ。
でも、その日私は思った。
世の中には、確かに文句を言う人もいる。
でも同じくらい、ちゃんと見ている人もいるんだと。
あのとき、後ろの男性が言った一言。
「いいことしましたね」
それだけで、さっきまでの小さな嫌な気持ちは、すっかり消えていた。
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]