あの日、玄関先に置かれていた生協の袋を見た瞬間、私は違和感を覚えた。いつも通り丁寧にまとめられた荷物。だが、袋の底がじっとり濡れている。
「え……なにこれ?」
持ち上げた瞬間、黄色い液体がキッチンの床へ垂れた。鼻をつく刺激臭。思わず息を止める。
まさかと思った。だが、何度嗅いでも同じだった。
尿の臭いだった。
その場で手が震えた。もうすぐ小学生の息子が帰ってくる時間だった。もし先に見つけていたら。もし触っていたら。そう思った瞬間、怒りと吐き気が同時に込み上げた。
私はすぐに生協へ電話した。
「袋の中に、変な液体が入ってるんです。たぶん……人の尿です」
電話口の担当者も一瞬言葉を失っていた。だがすぐに上司と共に向かうと言い、警察にも連絡するよう勧められた。
数十分後、家の前には警察車両と生協の車が止まり、近所の視線が集まり始めた。
警察官が袋を確認し、手袋をして慎重に調べる。
「これは悪質ですね。器物損壊や迷惑行為の可能性があります」
私は涙が止まらなかった。怖かった。気持ち悪かった。でも何より、誰かがわざと家族を狙ってこんなことをした事実が許せなかった。
その時だった。
警察官の一人が玄関横のインターホンを指さした。
「防犯カメラ、付いてますよね?」
そう。半年前、近所で置き配盗難が続き、念のため設置した小型カメラだった。私はすっかり存在を忘れていた。
映像を確認すると、そこには信じられない人物が映っていた。
昼過ぎ、配送後すぐに袋へ近づき、周囲を確認しながら中へ液体入りペットボトルを流し込む男。
向かいのマンション管理人だった。
私は声を失った。普段から愛想よく挨拶し、「お子さん元気ですね」と話しかけてきた五十代の男だったからだ。
警察はその場で管理会社へ連絡。男は一時間もしないうちに青ざめた顔で現れた。
そして玄関先で、いきなり土下座した。
「申し訳ありませんでした……魔が差しました……」
近所の人たちがざわついた。
私は冷たく言った。
「魔が差した? 子どもが食べる食材に尿を入れて?」
男は何も言えず、額を地面につけたまま震えていた。
さらに理由を聞いて、私は呆れた。
生協のトラックが邪魔で、自分の管理作業車が停めにくかった。何度か腹が立ち、嫌がらせした――ただそれだけだった。
たったそれだけの理由で、他人の家族にこんなことをしたのだ。
警察官も厳しい声で告げた。
「あなた、自分が何をしたか分かっていますか」
その後、管理会社社長まで駆けつけ、男は即日解雇。損害賠償と清掃費、食品代、慰謝料まで全額負担することになった。
後日、近所ではこの話でもちきりだった。
「あの人、真面目そうだったのにね」「まさかあんなことするなんて」
誰も男をかばわなかった。
そして私は、新しい食材が届いた袋を開けながら思った。
泣き寝入りしなくてよかった。気持ち悪い、怖い、面倒くさい――そうやって黙っていたら、あの男はまた誰かに同じことをしただろう。
数日後、管理会社から正式な謝罪文が届いた。そこにはこう書かれていた。
「二度と地域に関わらせません」
私はその紙を見て、静かに笑った。
家族を汚そうとした男は、たった一台の防犯カメラで人生ごと終わったのだった。