私は三十代のシングルファーザーだった。前妻の不倫で離婚し、小学三年生の娘と二人で暮らしていた。恋愛なんてもう自分には関係ないと思っていたし、娘が笑ってくれるなら、それだけで十分だった。
そんな時、職場の付き合いで行った大衆居酒屋で真由と出会った。上司が隣の女性グループに話しかけ、私は早く帰りたいと思いながら酒を飲んでいた。すると真由が、私の登山リュックを見て言った。
「それ、かなり詳しい人が使うブランドですよね。登山されるんですか?」
その一言で、私は思わず顔を上げた。真由も登山が好きで、話は驚くほど弾んだ。娘がいることを話すと、彼女は「お子さん、きっと可愛いでしょうね」と穏やかに笑った。
それから連絡を取り合うようになり、やがて三人で山へ行った。真由は娘の歩幅に合わせ、休憩のたびに水を渡し、靴紐まで気にしてくれた。娘もすぐに懐いた。
「真由お姉ちゃん、また山に行こうね」
その笑顔を見た時、私はこの人なら大丈夫かもしれないと思った。掲示板の人たちも祝福してくれた。
やがて私たちは結婚した。
だが、幸せは長く続かなかった。
ある夜、真由が言った。
「私も、自分の子どもが欲しい」
その「自分の」という言葉が胸に刺さった。娘は家族ではないのか。血がつながっていなければ、子どもではないのか。
私はすぐには答えられなかった。娘一人を大切に育てたい気持ちと、真由の願いを無視できない気持ちの間で揺れた。話し合おうとしても、真由は「もういい」と言って背を向けた。
その頃から、娘がぽつりと言うようになった。
「ママ、最近わたしに冷たい気がする。私、何かした?」
私の前では真由は優しかった。だから最初は、娘が敏感になっているだけかもしれないと思った。けれど胸の奥の違和感は消えなかった。
そして、あの日が来た。
朝、娘が恥ずかしそうに私の袖を引いた。
「パパ……あのね、トイレで……」
娘に初潮が来たのだ。私は慌てたが、真由はすぐに娘を洗面所へ連れて行き、落ち着いた声で説明してくれた。その姿を見て、やはり真由がいてくれてよかったと一瞬思った。
ところが、出勤しようとした私を真由が呼び止めた。
「今日はちゃんとお祝いしないと」
「帰ってから考えるよ」
「だめ。絶対に、ちゃんとお祝いして」
その目が、いつもの真由ではなかった。
昼休み、私は母に電話して赤飯のことを相談した。母は「作っておくから帰りに取りに来なさい」と言ってくれた。真由にそれを伝えると、すぐに返事が来た。
「私がもう作った。私はあの子の母親なんだから、私が祝うべきでしょ」
その文章を見た瞬間、嫌な汗が出た。普段、真由はそこまで料理にこだわる人ではない。
娘の誕生日でさえ仕事を優先したことがあった。それなのに、なぜ今日だけ、ここまで赤飯に執着するのか。
帰宅すると、食卓には娘の好きな料理が並んでいた。娘は照れながらも嬉しそうだった。私は母の作った赤飯を差し出した。
「これもせっかくだから食べよう」
真由は笑って受け取った。だが、私と自分の茶碗には母の赤飯をよそい、娘の分だけは炊飯器の中の赤飯をよそおうとした。
私が立ち上がると、真由は鋭い声を出した。
「私がやるから座ってて」
その瞬間、心臓が強く鳴った。
食卓に並んだ茶碗を見ると、娘の赤飯だけ色が少し違っていた。赤というより、どこか濁った橙色に見えた。
私は平静を装い、真由に言った。
「今日は祝いだから、ビールでも飲もうかな。取ってきてくれる?」
娘にも「今日は特別にラムネ飲んでいいよ」と言うと、二人は席を立った。その隙に、私は自分の茶碗と娘の茶碗を入れ替えた。
戻ってきた真由は、娘が赤飯を食べる姿をじっと見つめていた。
「おいしい?もっとあるからね」
しかし、次の瞬間、真由の顔色が変わった。手が震え、喉を押さえ、苦しそうに椅子から崩れ落ちた。
救急車を呼び、病院で検査が行われた。医師はただの食あたりではないと判断し、警察も動いた。家の炊飯器に残っていた赤飯を調べると、そこから危険な毒性成分が検出された。
さらに真由の登山用リュックから、不審な菌類が見つかった。
真由は病室で、すべてを認めた。
「あの子がいなければ、私たちの子どもを作って、本当の家族になれたのに」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に切れた。
娘は何も悪くない。ただ私のそばで一生懸命生きていただけだ。その子を、自分の幸せの邪魔者として消そうとした女を、私はもう家族とは呼べなかった。
真由は逮捕され、私は娘を連れて家を出た。今は遠く離れた場所で、娘の心の傷を少しずつ癒している。
掲示板の人たちは、最後まで私たちを心配してくれた。
私はもう恋愛に期待していない。
ただ、あの日あの茶碗を入れ替えた自分だけは、今でも褒めてやりたい。
父親として、娘を守れた。
それだけが、今の私の救いだ。
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