新幹線の車内は、静かだった。
午後の時間帯。
座席はそこそこ埋まっていたけれど、騒がしいほどではない。
私は窓側の席で、スマホを見ながらぼんやりしていた。
移動の疲れもあって、少し眠気もあった。
そんな時だった。
隣の女性が、急にこちらを向いた。
顔色が少し悪い。
声も小さい。
でも、明らかに焦っていた。
「すみません」
私は顔を上げた。
「生理ナプキンを持っていませんか?急ぎで必要なんです」
その瞬間、私はすぐにカバンを開けた。
理由なんて考えなかった。
困っている人がいる。
自分には予備がある。
それだけで十分だった。
ポーチの奥に入れていた未開封のナプキンを取り出し、彼女に渡した。
「これでよければ」
そう言うと、彼女はほっとしたように受け取った。
「ありがとうございます、助かります」
その言葉を聞いて、私も少し安心した。
よかった。
持っていてよかった。
普段から念のために入れているだけのものが、誰かの役に立った。
それだけで、少し嬉しかった。
彼女は急いで席を立った。
私はまたスマホに視線を戻した。
特別なことをしたつもりはなかった。
女性同士なら、こういう場面は誰にでもある。
外出先で急に必要になることもある。
トイレに備えがないこともある。
だから、渡せるなら渡す。
ただそれだけだった。
しばらくして、彼女が席に戻ってきた。
私は何も聞かなかった。
大丈夫でしたか、と声をかけるのも、逆に気まずいかもしれない。
そう思って、黙っていた。
でも、彼女は隣の友達に小さな声で話し始めた。
聞くつもりはなかった。
本当に。
でも、新幹線の座席は近い。
小声でも、隣なら聞こえてしまう。
「どこのブランドか分からないし」
一瞬、指が止まった。
「肌荒れしたら大変だな」
その言葉が、胸に刺さった。
私はスマホの画面を見つめたまま、動かなかった。
何も聞こえていないふりをした。
でも、耳にははっきり残っていた。
どこのブランドか分からない。
肌荒れしたら大変。
じゃあ、受け取らなければよかったのに。
そう思ってしまった。
困っていたから渡した。
未開封のものを渡した。
別に感謝してほしくて渡したわけじゃない。
でも、目の前で受け取っておいて、戻ってきてから友達に文句を言う。
それは、少しだけつらかった。
怒るほどのことではないのかもしれない。
でも、悲しかった。
善意って、こんなに簡単に雑に扱われるんだ。
私は何も言わなかった。
「じゃあ返してください」
なんて言えるわけがない。
「嫌なら使わなければよかったですね」
そう言う勇気もなかった。
ただ、聞こえないふりをして、スマホを操作した。
画面の文字は、まったく頭に入ってこなかった。
胸の奥がぎゅっと詰まっていた。
その時だった。
手首が、そっと震えた。
スマートウォッチの通知だった。
何気なく画面を見ると、そこに短い言葉が表示されていた。
“君は悪くないよ”
私は息を止めた。
偶然だと分かっている。
ただの通知だ。
たまたまそのタイミングで出ただけ。
それでも、その一言が今の私には強すぎた。
君は悪くないよ。
そう言われた気がした。
誰かに見ていてもらえた気がした。
私は唇を軽く噛んだ。
泣きそうになった。
本当に、泣きそうだった。
私は悪くない。
困っている人に、自分が持っているものを渡しただけ。
相手があとから何を言ったとしても、私がしたことまで間違いにはならない。
そう思えた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
隣の女性は、その後も友達と小さな声で話していた。
私はもう聞かないようにした。
イヤホンをつけた。
窓の外を見た。
流れていく景色を見ながら、手首の画面をもう一度見た。
“君は悪くないよ”
その文字は、しばらく私の中に残った。
私は思う。
人に親切にするのは、簡単なようで難しい。
渡したあとにどう思われるかなんて分からない。
感謝されることもある。
何も言われないこともある。
時には、こうして陰で文句を言われることもある。
でも、それでも。
困っている人に手を差し出した自分を、嫌いになりたくない。
相手の反応が悪かったからといって、次に困っている人を見ても無視する人間にはなりたくない。
もちろん、傷つく。
普通に傷つく。
でも、私がしたことは間違っていなかった。
あの時、彼女は本当に困っていた。
私は助けられるものを持っていた。
だから渡した。
それだけだ。
新幹線は、何事もなかったように走り続けていた。
車内の照明は明るく、座席は静かで、誰も私の小さな傷には気づかない。
でも、手首の小さな画面だけが、そっと味方をしてくれた。
“君は悪くないよ”
その一言で、私は最後まで黙っていられた。
怒鳴らずに済んだ。
泣かずに済んだ。
そして、自分の善意を嫌いにならずに済んだ。
誰かのために差し出したものを、相手がどう受け取るかは選べない。
でも、自分がどんな気持ちで差し出したかは、自分だけが知っている。
だから私は、あの日の自分に言ってあげたい。
大丈夫。
あなたは、悪くない。