「キャーッ!」
階段を降りる私の腕の中で、赤ちゃんがぎゅっと泣き声を上げた。
昨日まで普通だったアパートの鉄製階段。今日、私はその7段目で人生最大の恐怖を味わうことになるなんて思わなかった。
朝の光が柔らかく差し込む、いつもの廊下。赤ちゃんを抱っこし、息を整えながら、今日も会社に向かおうとした。
「よし、行こうね…」
その瞬間、足元で金属の嫌な音がした。ガタッ、と。
振り返る暇もなく、7段目がバキッと崩れ、私と赤ちゃんは空中でわずかに宙を舞った。
「痛っ…!痛っ…!」
地面に激しく叩きつけられる衝撃。赤ちゃんの泣き声が耳に刺さる。胸が張り裂けそうだった。
周りに誰もいない。息を整え、震える手で赤ちゃんを抱き上げた。手が震える。心臓も震える。
足元を見ると、崩れた階段の鉄片が散乱している。錆びた金属の断面が無造作に飛び出していた。
病院。診察台の上で赤ちゃんを抱き、私も診察を受けた。幸い大怪我ではなかったが、赤ちゃんの小さな体を見て、涙が止まらなかった。
「骨折はないけど、打撲と擦過傷ですね」
医師の声が遠く、現実感が薄れる。
家に戻ると、管理会社から電話がかかってきた。
「治療費はこちらで負担しますので、示談にしていただけますか」
その一言で、私の怒りが爆発した。
「は?示談だけ?慰謝料は?私の赤ちゃんが…!」
電話口の担当者は慌てた様子もなく、淡々と話すだけ。
私は決めた。ここで黙って引き下がるわけにはいかない。
ネットで調べると、同様の事故で慰謝料が支払われた事例がいくつもある。子どもが絡む事故は特に重大で、管理者責任は避けられない。
翌日、管理会社に直接出向いた。
「お話があります」
こちらは赤ちゃんの写真と診断書を握りしめている。
担当者は初め、眉ひとつ動かさずに「では、治療費のみで…」と言いかけた。
私は静かに資料を広げる。事故現場の写真、破損した階段、錆びた金属。
その瞬間、彼の表情が変わった。目が泳ぐ。少し顔色が青ざめる。
「…これは…」
言葉に詰まる様子を見て、私の心に小さな勝利感が芽生える。
その後、弁護士を通じて正式に慰謝料請求を伝えた。
管理会社は当初の態度を軟化させざるを得ず、最終的に十分な補償を提示してきた。
赤ちゃんを抱えながら階段を降りる恐怖、管理会社の無責任さ、すべてが報われた瞬間だった。
夜、赤ちゃんを寝かしつけながら、私は小さくため息をついた。
あの階段の7段目。小さな油断が、大きな事故に繋がる。
でも、怯えて黙っている必要はない。声を上げ、行動することで、守れる命があるのだと実感した。
「もう、あんな階段には近づかないよ…」
赤ちゃんの寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
怒りと恐怖を乗り越えた、私たちの小さな勝利だった。