総武線の車内に入った瞬間、私は思わず足を止めた。
床に、若い女性が倒れていた。
靴は片方ずつ離れた場所に転がり、バッグもスマホも投げ出されたまま。しかも、大の字。
一瞬、「え……死んでる?」と本気で思った。
だが次の瞬間。
「ただの酔っ払いでしょ」「最近の若い子ってさぁ」
そんな声が聞こえてきた。
確かに、酒の匂いはした。
でも、その女性はピクリとも動かない。
車内には二十人以上いたのに、誰も近づこうとはしなかった。
みんな、“関わりたくない”そんな空気だった。
私は少し離れた場所で固まった。
正直、怖かった。
もし病気だったら?もし急性アルコール中毒だったら?下手に触ったら危険かもしれない。
すると、向かい側に座っていた四十代くらいの女性が立ち上がった。
「駅員さん呼びます」
その一言で、止まっていた空気が少し動いた。
別の男性が、「呼吸ありますか?」と声をかける。
近くの女子高生が、散らばった靴を拾っていた。
それまで見ているだけだった車内が、少しずつ“助ける側”に変わっていった。
私はようやく、倒れている女性の近くへ行った。
お腹は上下していた。
生きてる。
少し安心したその時だった。
女性が突然、「……うぅ……」と苦しそうに声を漏らした。
その瞬間、車内の空気が変わった。
「やっぱり危ないんじゃない?」「救急車いるよね?」「酔ってるだけじゃないかも」
さっきまで“迷惑な酔っ払い”みたいに見ていた人たちが、急に不安そうな顔になる。
私はその時、少し腹が立った。
倒れてる人を見て、勝手に“迷惑客”って決めつけるの、違うだろって。
でも同時に、自分も最初は動けなかった。
怖かったから。
だから、最初に立ち上がったあの女性が、すごく格好良く見えた。
次の駅で、救急隊員が乗ってきた。
「大丈夫ですかー!」
女性はうっすら目を開け、ぼんやり周囲を見た。
かなり酔っていたらしい。
でも、隊員さんが確認すると、軽い脱水と貧血も重なっていたそうだ。
もし誰も通報していなかったら、本当に危なかったかもしれない。
救急隊員に付き添われながら、女性は小さな声で言った。
「……すみません……」
すると、最初に通報した女性が笑って言った。
「謝らなくていいよ。無事でよかった」
その瞬間だった。
車内の空気が、やっと柔らかくなった。
誰かが靴を渡し、別の人がバッグを持っていく。
気づけば、誰一人、女性の荷物を盗ろうとした人はいなかった。
私はその光景を見ながら、少しだけ安心した。
SNSでは、「日本終わってる」みたいな話ばかり流れてくる。
確かに、冷たい人もいる。
見て見ぬふりする人もいる。
でも、知らない誰かのために動ける人も、ちゃんといるんだと思った。
あの時、最初に立ち上がった女性がいなければ、きっと車内は最後まで“誰かがやるだろう”で終わっていた。
たった一人の行動で、空気って変わるんだなって思った。
そして私は、総武線を降りる時、床に落ちていた片方の靴が、ちゃんと女性の足元に戻っているのを見て、少しだけ泣きそうになった。