「少しくらい家事手伝ってよ」
その一言が、すべての始まりだった。
金曜の夜。
仕事から帰った俺は、テーブルに置かれた洗い物を見て、思わず舌打ちした。
「俺だって仕事で疲れてんだけど」
すると妻は、静かに言った。
「私も働いてるよ?」
その瞬間、なぜか無性にイラついた。
「じゃあ全部半分にしろって?」「ていうか家事って、そんな偉いわけ?」
今思えば、完全に八つ当たりだった。
でもその時の俺は、“自分だけ頑張ってる”と思い込んでいた。
妻はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「そっか」
その笑い方が、妙に腹立たしかった。
俺は勢いのまま言った。
「少しくらい自分でやれよ」「俺の仕事じゃないから」
沈黙。
数秒後。
妻は、俺の顔を見たまま、静かに言った。
「……それ、私の仕事じゃないから」
俺がさっき言った言葉を、そのまま返された。
しかも笑顔で。
あの瞬間、なんか負けた気がして、俺はそのまま家を飛び出した。
財布とスマホだけ持って。
――でも、家出って、想像以上にキツかった。
とりあえずファミレスへ入る。
ドリンクバーだけ頼み、三時間粘った。
周りを見る。
家族連れ。カップル。学生。
みんな普通に笑ってる。
なのに俺だけ、深夜のファミレスで、一人。
しかも財布の中、711円。
「……やば」
そこで初めて、勢いだけで家を出たことを後悔した。
仕方なく、ネカフェへ移動。
個室に入った瞬間、急に静かになった。
その時だった。
頭の中に、家の音が浮かんだ。
洗濯機。包丁の音。味噌汁の匂い。
いつも“勝手に存在してたもの”が、実は全部、妻が動いていた結果だったことに気づく。
でも今さら、連絡なんてできなかった。
俺が悪いから。
暇すぎて、ノートに日記を書き始めた。
「ママ、強すぎる」
自分で書いて、ちょっと笑った。
二日目。
空腹で目が覚める。
コンビニへ行こうとして、また財布を見る。
残金、ほぼ終わり。
しかも、情けないことに、真っ先に浮かんだのは――
「帰ったら飯あるんだよな」
だった。
その瞬間、スマホが震えた。
妻からだった。
身構える。
「帰ってくるなら鍵開けとく」
……とか、怒りのLINEを想像した。
でも画面には、一言だけ。
『生きてる?』
その下に、PayPay送金通知。
10000円。
思わず声が出た。
「は……?」
意味が分からなかった。
普通、怒るだろ。
呆れるだろ。
なのに妻は、何も責めなかった。
ただ、金だけ送ってきた。
俺はスマホを見ながら、しばらく動けなかった。
その夜、ネカフェで一人、泣きそうになった。
三日目。
もう帰ろうと思った。
プライドとか、どうでもよくなっていた。
家に着く。
恐る恐る扉を開ける。
すると――
普通だった。
テレビの音。洗濯物。晩ごはんの匂い。
妻はキッチンに立ちながら、こっちを見た。
「おかえり」
それだけ。
怒鳴りもしない。
責めもしない。
俺は、何を言えばいいか分からなくなった。
しばらく沈黙して、やっと言った。
「……悪かった」
妻は少し笑った。
「うん」
それから味噌汁をよそいながら、さらっと言った。
「じゃあ今日からゴミ出しお願いね」
俺は、思わず吹き出した。
負けた。
完全に負けた。
でも不思議と、悔しくなかった。
むしろ、やっと“大人になれた”気がした。
家事って、誰かが勝手にやってくれるものじゃない。
誰かが、毎日、黙って支えてたものだった。
その“誰か”を、俺はずっと、当たり前みたいに扱っていたんだ。
財布711円の家出で、俺はやっとそれを知った。