「別に怒ってないから」
夫はいつもそう言っていました。
でも、その“怒ってない”が、私には一番怖かったんです。
物音を立てるだけで舌打ち。少し話しかけただけで無視。食事の味が気に入らない日は、わざと聞こえるようにため息。
暴力はありませんでした。
でも家の空気は、毎日ずっと張り詰めていました。
気づけば私は、玄関の鍵が開く音だけで動悸がするようになっていました。
ある日の夜。
夫はソファに座ったまま、無言でこちらを見ていました。
テレビもついていない。
ただ、黙って見ているだけ。
それなのに私は、呼吸が苦しくなって、涙が止まらなくなったんです。
翌日、私は初めて弁護士事務所へ向かいました。
女性の弁護士さんは、私の話を静かに聞いたあと、こう言いました。
「……今すぐ別居した方がいいです」
私は思わず聞き返しました。
「でも、殴られたりはしてないんです」
すると先生は、はっきり言いました。
「心が壊れる寸前です」
その瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れました。
帰宅後、私は震える手で物件を探しました。
夫に見つからないよう、履歴を消しながら。
次の日には、マンスリーマンションを契約。
さらに別居先の審査も通り、私は“昼逃げ”の準備を始めました。
通帳、印鑑、保険証、最低限の服。
見つかったら終わる。
そう思うだけで、手が震えました。
でも、もう戻れませんでした。
夫は相変わらず、何も気づいていない顔をしていました。
「飯は?」
「洗濯まだ?」
「俺のワイシャツは?」
私は返事をしながら、心の中で何度も呟いていました。
“あと少し”
“あと少しで逃げられる”
そして当日。
夫が出勤した瞬間、私は一気に動きました。
段ボールを運び、レンタカーを借り、荷物を積み込む。
汗が止まりませんでした。
すると突然、スマホが鳴ったんです。
夫からでした。
心臓が止まりそうになりました。
震える指で出ると、夫は低い声で言いました。
「……家に忘れ物した」
頭が真っ白になりました。
帰ってくる。
あと二十分もしないうちに。
私は必死で荷物を押し込み、最後の段ボールを抱えました。
でも焦った瞬間、荷物が崩れ、通帳ケースが床に散らばったんです。
「あっ……!」
泣きそうになりながら拾っていると、外から車の音が聞こえました。
夫だ。
終わった。
そう思った瞬間――
別の部屋の奥さんが、突然こちらへ走ってきたんです。
「こっち!」
以前、私の様子がおかしいことに気づいていた人でした。
奥さんは私を自分の部屋へ入れ、カーテンを閉めました。
数分後。
夫が帰宅。
玄関の開く音。
荒い足音。
そして――
「おい!!」
怒鳴り声。
でも私は、初めて思ったんです。
“もう、戻らなくていい”
その後、夫から大量の着信が来ました。
『話し合おう』
『俺そんな悪いことした?』
『お前が勝手に被害者ぶってるだけだろ』
私はずっと無視していました。
でも最後に届いたメッセージだけ、私は返信しました。
『あなたは、私が“逃げなきゃいけない相手”だった』
送信した瞬間、涙が止まりませんでした。
怖かった。
ずっと。
でもその日、私は初めて、自分の人生を取り戻した気がしました。