給料日なのに、私は明細を見て固まった。
普通、給料明細というものは、働いた分のお金が入る知らせだと思っていた。
少なくとも、その月まではそう信じていた。
朝から現場に出て、荷物を運び、汗だくになって、階段を上り下りした。
重いタンス。
冷蔵庫。
洗濯機。
段ボールの山。
腰は痛い。
腕は張る。
それでも「仕事だから」と思ってやっていた。
引っ越しの仕事は楽ではない。
お客様の家具を傷つけないように気を使う。
時間にも追われる。
現場では怒鳴られることもある。
それでも、給料日になれば少しは報われる。
そう思っていた。
ところが、その月の明細には、とんでもない数字が並んでいた。
支給額。
控除額。
勤務日数。
残業時間。
そこまではいつもの明細だった。
問題は下の方だった。
差引支給額。
マイナス一千円。
私は二度見した。
いや、三度見した。
給料が振り込まれるどころか、会社に一千円払うことになっている。
意味が分からなかった。
働いた。
現場に出た。
残業もした。
身体も使った。
それなのに、給料日にこちらが会社へお金を渡す明細。
これは給料明細なのか。
請求書なのか。
それとも新手のドッキリなのか。
さらに目を下へ落とすと、控除欄に大きな金額があった。
引越事故賠償金。
十一万三千五百五十円。
そこで、頭の中が一気に冷えた。
事故の賠償。
それを給料から引かれている。
もちろん、仕事中のミスがあったのかもしれない。
現場で何かが起きたのかもしれない。
でも、だからといって、働いた給料からここまで勝手に引かれて、結果がマイナスになるのは普通なのか。
私は明細を持ったまま、しばらく動けなかった。
周りはいつも通りだった。
誰かが電話をしている。
誰かが次の現場の確認をしている。
トラックの鍵が鳴る。
でも、私の耳にはほとんど入ってこなかった。
頭の中では、ずっと同じ言葉が回っていた。
「給料日にマイナス?」
「一円も振り込まれない?」
「むしろ払え?」
働いた結果、口座に入る金額はゼロ。
いや、明細上はマイナス。
ここまで来ると、笑うしかなかった。
ブラック企業という言葉はよく聞く。
でも、本当に黒いものを見ると、人間は笑えなくなる。
黒というより、もはや闇だった。
私は確認した。
何の金額なのか。
どういう根拠なのか。
なぜこの額なのか。
なぜ全額、給料から引かれるのか。
返ってくる説明は、どこか事務的だった。
まるで、当たり前の処理ですという顔をしている。
いや、当たり前ではない。
こちらは生活がある。
家賃もある。
食費もある。
保険料も引かれている。
税金も引かれている。
そこに事故賠償金まで乗せられて、最後に残るのがマイナス一千円。
給料明細というより、生活破壊通知だった。
その時、私は思った。
ここにいたら壊れる。
体ではなく、感覚が壊れる。
おかしいことをおかしいと言えなくなる。
「会社では普通だから」と言われ続けて、自分の方が間違っている気にさせられる。
それが一番怖かった。
結局、私はその会社を辞めた。
もう関係ない。
そう思いたかった。
でも、終わらなかった。
辞めた後も、毎月のように支払いを催促する手紙が来た。
ポストを開けるたびに、胃が重くなった。
もう働いていない。
もう現場にも出ていない。
それなのに、過去の明細がまだ追いかけてくる。
給料日に一円も振り込まれなかった月のことを、私は忘れられない。
普通なら、働いた人にお金を払う。
当たり前だ。
でも、あの時の明細は逆だった。
働いた人間が、会社にお金を払う構図になっていた。
しかも、紙の上では淡々としている。
数字だけが並び、感情はない。
でも、その数字の裏には、人の生活がある。
その月の食費。
家賃。
交通費。
家族への説明。
全部がある。
会社から見れば、一枚の明細かもしれない。
でも、受け取った側からすれば、生活に突きつけられた刃物みたいなものだった。
今さらと言えば、今さらだ。
もう辞めた会社だ。
当時のことを思い出しても、給料が戻るわけではない。
でも、あの明細を見た時の衝撃だけは消えない。
「差引支給額、マイナス一千円」
この文字列の破壊力はすごい。
社会人として働いてきて、給料日に会社へ借金を背負わされるような気分になるとは思わなかった。
仕事でミスが起きることはある。
誰だって完璧ではない。
でも、その負担をどう扱うかで会社の本性が出る。
従業員を守るのか。
説明するのか。
話し合うのか。
それとも、明細一枚で黙って引くのか。
私が見たのは、後者だった。
だから今でも思う。
あの明細は、ただの給与明細ではなかった。
会社の体質が数字で印刷された紙だった。
給料日なのに、口座には一円も入らない。
それどころか、辞めたあとまで催促が来る。
引っ越しの荷物より重かったのは、冷蔵庫でもタンスでもない。
あの会社の明細だった。