新幹線で弁当を開こうとした瞬間、目の前に“裸足”が現れた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
前の座席の女性がヒールを脱ぎ、素足のまま足を持ち上げ、私のテーブルのすぐ前に乗せていた。
その距離、わずか数十センチ。
さっきまで仕事を終え、ようやく一息つける時間だった。
温かいお茶を置き、駅弁の蓋を開けた、その瞬間だった。
私は一度、目を閉じた。
見なかったことにすることもできた。
でも、無理だった。
ここは、食事をする場所だ。
私はできるだけ冷静に声をかけた。
「すみません。ここ、食事をするテーブルなので、足を下ろしてもらえますか?」
女性はゆっくりとこちらを見た。
そして、明らかに不機嫌そうに言った。
「……別に触ってないですよね?」
その言葉に、一瞬、言葉を失った。
触れているかどうかの問題じゃない。
「でも、ここは皆が使う場所ですし……」
女性は鼻で笑った。
「神経質すぎません?」
その一言で、空気が変わった。
周囲の乗客たちも、明らかにこちらを気にしている。
でも、誰も何も言わない。
女性は足を下ろすどころか、スマホを見ながら完全に無視する姿勢を取った。
そのときだった。
斜め後ろに座っていた男性が、小さな声で言った。
「……あの、よかったら席、代わりましょうか」
思わず振り返る。
「トラブルに巻き込まれたくないでしょうし」
その気遣いはありがたかった。
でも同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
迷惑をかけられた側が、場所を移る。
それが、この国の“普通”なのかもしれない。
私は小さく首を振った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
その瞬間、自分の中で何かが決まった。
私は座席のボタンを押した。
数分後、乗務員が来た。
状況を説明すると、乗務員はすぐに理解した。
「申し訳ありません。他のお客様のご迷惑になりますので、足をお下ろしください」
女性は露骨に顔をしかめた。
「……はいはい」
乱暴に足を下ろす。
しかし、靴は通路に置いたままだった。
乗務員はそれを確認し、静かに言った。
「通路に放置された履物は、安全上の理由から一時的にお預かりいたします」
女性は適当に頷いた。
そして、そのままスマホを見続けた。
――数分後。
列車が次の駅に到着した。
女性は立ち上がり、足元を見て固まった。
「……え?」
靴がない。
慌てて周囲を見る。
「ちょっと、私の靴は?」
乗務員が落ち着いた声で答えた。
「こちらで安全管理のためお預かりしております」
差し出された靴を受け取るとき、女性の顔は明らかに赤くなっていた。
周囲の乗客たちの視線が、静かに集まっていた。
さっきまでの強気な態度は、完全に消えていた。
女性は急いで靴を履き、逃げるようにドアへ向かった。
発車ベルが鳴る。
ギリギリでホームへ降りる。
その背中を見ながら、私はようやく弁当を開いた。
そして、小さく呟いた。
「ここは、あなたの家じゃありません」
もちろん、彼女には聞こえていない。
でも、それでよかった。
ずっと、我慢するものだと思っていた。
迷惑をかけられても、黙ってやり過ごすのが大人だと。
でも違う。
守るべき境界は、ちゃんと守っていい。
新幹線は静かに動き出した。
私はようやく、安心して最初の一口を口に運んだ。
恥ずかしい思いをしたのは――私じゃない。