その日の朝の電車は、いつも通り静かだった。
通勤時間帯で座席はほぼ埋まり、ほとんどの人がスマホを見たり、目を閉じてうとうとしている。私も空いていた席に座り、ぼんやり前を見ていたときだった。
ふと、違和感に気づいた。
前の席に座っている若い男性が、座席を大きく倒してくつろぎ、両足を前の座席の背もたれに乗せていたのだ。しかも靴を脱ぎ、靴下のまま足をぶらぶら揺らしている。
その足のすぐ向こうには、四十代くらいのサラリーマン風の男性が座っていた。最初はスマホを見ていたが、顔を上げた瞬間、目の前の足に気づき、明らかに表情が固まった。
車内の何人かも気づいている。けれど、誰も何も言わない。
若い男性はまるで自宅のリビングにいるかのようにリラックスし、スマホをいじり続けている。
しばらくして、前の席のサラリーマンが静かに振り返った。
「すみません、足を下ろしてもらえますか?」
できるだけ穏やかな口調だった。
しかし若い男性は顔を上げると、少し面倒くさそうに言った。
「え?なんで?」
サラリーマンは自分の前を指さす。
「ちょっと近いので……」
すると若い男性は笑いながら言った。
「いや、触ってないでしょ?それに今日めっちゃ暑いじゃないですか。蒸れるから靴脱いでるだけなんで。」
そう言って肩をすくめ、またスマホを見始めた。
車内の空気が少し張りつめた。
周りの乗客たちは様子をうかがうが、誰も口を出さない。
電車は次の駅へ向かって走り続けた。
前の席のサラリーマンは何度か姿勢を変えていたが、結局その足は目の前にあるままだった。
そして――
サラリーマンがゆっくり立ち上がった。
床に置いてあった若い男性の靴を手に取ったのだ。
若い男性は一瞬、何が起きているのかわからない様子だった。
ちょうどそのとき、電車が駅に到着した。ドアが開く。
サラリーマンはそのままドアのところまで歩き、靴をホームの上に置いた。
そして何事もなかったように席へ戻り、静かに座った。
車内が一瞬、凍りついた。
数秒後、若い男性が気づく。
「ちょっ……俺の靴!」
慌てて立ち上がりドアへ走るが、すでにドアは閉まり、電車は動き始めていた。
ホームには、さっきの靴がぽつんと残っている。
車内のどこかから小さく笑い声が漏れた。
若い男性は顔を真っ赤にして振り返る。
「何してんだよ!」
怒鳴るように言った。
するとサラリーマンは落ち着いた顔で、さっきと同じように静かに言った。
「さっき言ってましたよね。今日は暑いって。」
若い男性は言葉を失った。
サラリーマンは続けてこう言った。
「暑いなら、裸足でも問題ないですよね。」
それ以上、誰も何も言わなかった。
若い男性はその後、数駅のあいだ裸足のまま立っていた。
スマホも触らず、ただ床を見つめていた。
車内には、さっきまでとは違う静けさが流れていた。
私はその光景を見ながら思った。
もし最初に注意されたとき、ただ足を下ろしていれば――
こんなことにはならなかったのかもしれない。
電車は、誰か一人の場所じゃない。みんなで使う場所だ。
でも、あのサラリーマンのやり方は――
正直、少しやりすぎだったのだろうか。
もしあなたがあの車内にいたら、この場面でどうしますか?