「空いてる席、いっぱいあるんだから、そっち座ればいいじゃない」
その一言を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
私は自分の手に持っていた指定席券を見た。車両番号も、座席番号も間違っていない。ここは間違いなく、私が追加料金を払って予約した席だった。
だが、その席には――見知らぬ老婆が堂々と座っていた。
しかも、すでに駅弁を広げ、ペットボトルまで開けて完全にくつろいでいる。
私は一度深呼吸して、できるだけ冷静に声をかけた。
「あの、すみません。そこ、私の指定席なんですが……」
老婆は顔を上げ、私を見た。
そして、面倒くさそうに言った。
「え?」
まるで、こちらが非常識なことを言っているかのような反応だった。
私はもう一度、指定席券を見せながら説明した。
「この席を予約しているので、確認していただけますか?」
すると老婆は、ため息をついて言った。
「でも、空いてる席いっぱいあるじゃない」
そして、周囲を指さした。
「そっち座ればいいでしょ」
一瞬、言葉が出なかった。
確かに、いくつか空席はあった。だが、それは“自由席”ではない。
同じように、誰かが料金を払って予約している席だ。
私ははっきりと言った。
「ここは私が予約している席ですので、移動をお願いできますか」
老婆の表情が変わった。
明らかに不機嫌そうに、私を睨んだ。
「若いんだから、立ってても大丈夫でしょ」
その一言で、周囲の空気が変わったのを感じた。
近くに座っていた乗客が、こちらをちらりと見た。
私は唖然とした。
なぜ、私が立たなければならないのか。
なぜ、料金を払っていない人が、当然のように座っているのか。
しかも老婆は、すでに箸を手に取り、駅弁を食べ始めていた。
完全に動く気はない。
私はもう一度言った。
「申し訳ありませんが、そこは私の席です」
しかし老婆は無視した。
まるで、私が存在しないかのように。
その瞬間、私は悟った。
――これは話が通じない。
私は何も言わず、その場を離れた。
そして、車掌を探した。
数分後、車掌が一緒に席まで来た。
「どうされましたか」
私は指定席券を見せ、事情を説明した。
車掌はうなずき、老婆に向き直った。
「恐れ入りますが、指定席券を確認させていただけますか」
老婆は一瞬、固まった。
そして言った。
「……え?」
「こちらの席の指定席券をお持ちですか」
老婆はバッグを探るふりをした。
だが、何も出てこない。
沈黙。
車掌は、落ち着いた声で言った。
「指定席券をお持ちでない場合、この席をご利用いただくことはできません」
老婆の顔色が変わった。
「でも、空いてたから……」
車掌ははっきりと言った。
「指定席は、ご予約されたお客様の席です」
そして続けた。
「このままご利用になる場合は、追加料金をお支払いいただく必要があります」
老婆は言葉を失った。
周囲の乗客の視線が集まっている。
数秒の沈黙の後――
老婆はゆっくりと立ち上がった。
何も言わずに。
弁当を片付け、バッグを持ち、私の横を通り過ぎた。
さっきまでの態度は、完全に消えていた。
車掌が私に言った。
「お待たせいたしました」
私は小さく頭を下げた。
そして、自分の席に座った。
さっきまで他人が座っていた席。
だが、それは間違いなく――私の席だった。
窓の外を見ながら、私は思った。
もし、あのまま何も言わなければ。
もし、遠慮して別の席に座っていたら。
あの人は、最後までそこに座り続けただろう。
ルールを守る人間が損をして、
守らない人間が得をする。
そんな状況は、間違っている。
あの時、車掌が来た瞬間――
守られるべきものが、守られたのだ。
そして私は、ようやく安心して座ることができた。
本来、最初からそうであるべきだった場所に。