私はその席の前で足を止めた。
――まただ。
床一面に、麺が踏み潰されていた。
スープも飛び散り、靴の跡と一緒に広がっている。ティッシュはぐしゃぐしゃのまま放置され、椅子の下にも食べかすが散乱していた。
そして、その席に座っていたのは――さっき帰ったばかりの子連れの家族だった。
正直、子どもがこぼすこと自体は珍しくない。むしろ当たり前だ。問題は、その後だった。
何も言わずに帰ったのだ。
一言も。
「すみません」の一言すらなく。
私は無言でモップを取りに行き、しゃがみ込んで掃除を始めた。踏み潰された麺は床に張り付き、簡単には取れない。次の客をすぐ案内できるはずの席も、これでは使えない。
悔しさが、胸の奥に溜まっていった。
――この家族は、初めてじゃない。
数日前、初めて来た時も同じだった。
まだ小さい子どもが麺を落とし、床に散らばった。私はその時、できるだけ穏やかに声をかけた。
「お客様、かなりこぼれておりますので、お足元お気をつけください」
母親は軽く笑って言った。
「すみません、子どもなので……気をつけます」
その言葉を、私は信じた。
だが、帰った後――床はそのままだった。
拾った形跡すらない。
ティッシュも麺も、そのまま放置されていた。
それでも私は、何も言わなかった。
子ども連れは大変だ。そう思ったからだ。
だが――今日。
同じ家族が、また来た。
席に案内した瞬間、嫌な予感がした。そしてその予感は、外れなかった。
子どもが麺を落とす。
踏む。
広がる。
私は意を決して、前よりはっきりと言った。
「申し訳ありません、前回も同じようなことがありましたので、少しご配慮いただけますと助かります」
その瞬間だった。
母親の表情が変わった。
「……は?」
空気が変わったのを感じた。
父親が椅子を引きながら、こちらを睨んだ。
「子どもがやったことだろ?」
私は冷静に答えた。
「はい、ですが、他のお客様もいらっしゃいますので――」
その言葉を遮るように、父親が言った。
「子ども連れて来てるんだから仕方ないでしょ?」
開き直りだった。
母親も続けた。
「掃除は店の仕事ですよね?」
頭が真っ白になった。
子どもがこぼすことは仕方ない。だが――
何もせず、それを当然だと言い切るのか。
店内が静まり返っていた。他の客も、こちらを見ていた。
その時だった。
「どうされましたか」
店長が奥から出てきた。
状況を一目見て、すべてを理解したようだった。
そして、静かに言った。
「申し訳ありませんが、当店のご利用は今回限りとさせていただきます」
一瞬、意味が理解できなかったのは――親の方だった。
「……は?」
父親が声を上げた。
「子ども連れだから差別するのか?」
だが店長は、はっきりと言った。
「いいえ。問題はお子様ではなく、保護者様の対応です」
空気が凍った。
「他のお客様と店舗を守るための判断です。申し訳ありませんが、今後のご利用はお断りいたします」
完全な出入り禁止だった。
親は何か言いかけたが、言葉が出てこなかった。周囲の視線を感じたのか、やがて無言で席を立ち、そのまま店を出ていった。
その背中を、私はずっと見ていた。
翌日。
店の入口に、新しい貼り紙が貼られた。
「店内を著しく汚され、注意に従っていただけない場合はご利用をお断りいたします」
それは、店の意思表示だった。
それから――あの家族は、二度と来ていない。
そして店は、静けさを取り戻した。
床に麺が散乱することもなくなった。
常連客も戻ってきた。
ある日、いつも来る高齢の常連客が、コーヒーを飲みながら私に言った。
「大変だったね。でも、よかった」
私は初めて、報われた気がした。
子どもが悪いわけじゃない。
だが――
子どもを理由に、責任から逃げる大人は、客ではない。
あの日、店は一つの線を引いた。
守るべきものを、守るために。