子どもが、目の前で吹き飛んだ。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
人の波が流れる交差点。青信号になり、誰もが同じ方向へ歩き出した、その瞬間だった。前を歩いていた小さな子どもが、突然バランスを崩し、そのままアスファルトに叩きつけられた。
「えっ……?」
思わず声が漏れた。
そのすぐ横を、一人の女が歩いていた。
違和感があった。
ただぶつかった、という動きではなかった。すれ違う直前、女はわずかに腕を持ち上げ、肘を突き出すようにしていたのだ。
明らかに、“避ける動き”ではなかった。
子どもは痛みに顔を歪め、その場で動けずにいた。すぐ後ろにいた母親が駆け寄り、「大丈夫!?痛くない!?」と必死に抱き起こす。
だが――
ぶつかった女は、止まらなかった。
振り返りもしない。
何事もなかったかのように、そのまま歩き続けていた。
その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
――今のは、おかしい。
私は反射的に声を上げた。
「すみません!」
女の足が一瞬止まった。
振り返ったその顔には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「今、ぶつかりましたよね?」
できるだけ冷静に言った。
だが女は、眉をひそめた。
「は?」
その一言には、驚きではなく、“不快感”が混じっていた。
私は続けた。
「お子さん、転びましたよ」
すると女は、はっきりと言った。
「勝手にぶつかってきただけでしょ」
一瞬、言葉を失った。
謝罪どころか、完全な否定。
そして女は、それ以上話す気もないというように、再び歩き出そうとした。
その時、母親が小さく言った。
「……すみません」
だが、それは女に向けた謝罪ではなかった。
状況を荒立てたくない、という気持ちが伝わってきた。
子どもはまだ、不安そうに母親の腕を握っている。
このまま、終わらせていいのか。
そう思った瞬間、私はスマートフォンを握り直した。
「全部、記録されています」
女の足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……何がですか」
声のトーンが変わっていた。
私は画面を見せた。
さっきまで撮影していた街の映像。そこには、人の流れと、そして――女が肘を突き出す瞬間が、はっきりと映っていた。
女の表情が変わった。
さっきまでの余裕が、消えていく。
「近くには防犯カメラもあります」
私は続けた。
「確認すれば、分かります」
沈黙。
数秒間、女は何も言わなかった。
そして、何も言わずに、そのまま歩き去った。
だが、その背中にはもう、さっきまでの強さはなかった。
数日後。
私は警察から連絡を受けた。
あの日の映像について、確認したいことがあるという。
防犯カメラの映像と、私の動画。
両方が、同じ瞬間を記録していた。
偶然ではない動き。
避けるのではなく、ぶつかりに行く動き。
すべてが、明確だった。
あの女は、警察に呼ばれていた。
逃げたつもりだったのだろう。
何も言わず、立ち去れば終わると。
だが――
記録は残っていた。
あの時、子どもは何もしていなかった。
ただ、歩いていただけだった。
それでも、守られた。
証拠があったからだ。
そして私は、あの日初めて実感した。
見て見ぬふりをしないことが、
誰かを守ることにつながるのだと。