たった730円だった。
駅前から自宅まで、歩いても10分ちょっとの距離。
でもその日は、無理だった。
胸には抱っこ紐で赤ちゃん。
両手にはスーパーの重たいレジ袋。
寝不足、腰はバキバキ、頭はずっとボーッとしてる。
新生児期って、ほんと地獄。
夜は細切れ睡眠。
昼はオムツ、授乳、洗濯、買い出し。
自分のトイレすら落ち着いて行けない。
「もう限界…」
そう思って、私はタクシーに乗った。
ワンメーター。730円。
運転手は最初から最後まで無言。
ミラー越しの目も合わない。
まあいい。早く帰れれば。
到着。
私は習慣で言った。
「ありがとうございました」
返事なし。
まあ、そんな人もいるよね…と思いながら、私は車を降りた。
赤ちゃんを胸に抱え直し、袋を持ち替え、歩道側に一歩出た。
その瞬間。
――ブオオオオッ!!!
後ろでエンジンが吠えた。
次の瞬間、タクシーが猛スピードでバックしてきた。
ゆっくりじゃない。
迷いゼロ。アクセル踏み抜き。
私は反射的に体をひねって、赤ちゃんを内側に抱き込んだ。
レジ袋が手から落ちる。
卵が割れる音。
牛乳が地面に広がる。
車体が、私の背中スレスレを通過した。
本当に、紙一重。
足が震えて動かなかった。
心臓が喉まで飛び出そうだった。
そのとき、近くにいた男性が叫んだ。
「おい!!今の危ねえだろ!!」
別の女性も走ってきてくれた。
「大丈夫!?赤ちゃん!!」
その声で、やっと現実に戻った。
タクシーは少し先で止まっていた。
男性が車の前に立ちふさがり、ナンバーをスマホで撮影。
女性は私の肩を支えながら
「今の、見てました。完全に危険運転です」
って、震える私に言ってくれた。
その場で会社名と車番を確認。
私は帰宅してから、すぐにタクシー会社へ電話した。
声は震えてたけど、全部話した。
赤ちゃんを抱いていたこと。
730円のワンメーターだったこと。
降車直後に急加速でバックされたこと。
通行人の目撃者がいること。
数日後、会社から正式な謝罪。
ドライブレコーダーと聞き取りの結果、
その運転手は危険運転で乗務停止処分になったと連絡が来た。
正直、ホッとした。
でも同時に、怒りも込み上げた。
私、何も悪いことしてない。
疲れ切った母親が、赤ちゃん抱いて、
たった730円で帰宅しようとしただけ。
それだけ。
なのに。
無言で。
無表情で。
最後はアクセル踏んで命を奪いにくる。
ふざけんなよ。
こっちは毎日、睡眠削って、体力削って、
必死で小さな命守ってんだよ。
あんたのストレスの捌け口になるために
子ども産んだわけじゃない。
あの時、通報しなかったら。
路上で倒れ込んで終わってたら。
もし子どもが外側だったら。
今ここに、私はいなかったかもしれない。
だから書く。
育児でボロボロの人。
赤ちゃん抱えて遠慮してる人。
我慢しなくていい。
大げさじゃない。
あなたの命は730円よりずっと重い。
そして運転席に座る人間へ。
ハンドル握るってことは、
他人の人生を預かってるってことだ。
忘れるな。
730円は安い。
でも命は、クソほど高い。