その日、私はいつものように日帰り入浴の受付に立っていた。
山の空気は澄んでいて、入口の外には温泉を楽しみに来たお客様の声が聞こえていた。
うちの露天風呂は、少し変わっている。
屋外にある。
しかも、階段を三百二十段ほど下りた先にある。
正直、気軽にひょいと行ける場所ではない。
それでも、そこまで歩いてでも入りたいと言ってくれる人がいる。
だからこそ、私たちも大事にしてきた。
案内板にも書いてある。
男湯。
女湯。
利用時間。
注意事項。
当たり前のことを、当たり前に守ってもらうための表示だ。
温泉は、ただお湯に入る場所ではない。
裸になる場所だ。
安心して入れることが、何より大事だ。
特に女性専用の浴場は、その「安心」が前提にある。
その前提が崩れたら、もう商売にならない。
問題が起きたのは、そんな普通の営業日のことだった。
最初に違和感を伝えてきたのは、女性のお客様だった。
顔色が悪かった。
声も少し震えていた。
「あの、女湯に……男性がいました」
一瞬、意味が分からなかった。
女湯に男性。
聞き間違いかと思った。
でも、お客様の表情は冗談ではなかった。
さらに話を聞くと、男女五人ほどのグループが、女性専用の風呂に入っていたという。
私は背筋が冷えた。
頭の中で、案内板の文字が浮かんだ。
女性専用。
専用。
その二文字を、どう読んだら男女五人で入れる場所になるのか。
スタッフが現地へ確認に向かった。
階段を急いで下りる。
三百二十段。
普段なら景色を見ながら歩く道が、その時だけはやけに長く感じた。
戻ってきたスタッフの顔を見て、私は全部を察した。
事実だった。
悪い夢ではなかった。
本当に、女性専用の浴場が不適切に利用されていた。
怒りより先に、情けなさが来た。
ここまで書かないと分からないのか。
ここまで管理しないと守れないのか。
男女の区別。
専用表示。
入浴マナー。
そんなものは、温泉以前の話ではないのか。
もちろん、間違えた可能性を完全に否定するつもりはない。
初めて来た人なら、場所が分かりにくかったのかもしれない。
海外のお客様なら、表示の意味が十分伝わらなかったのかもしれない。
でも、それでも限度がある。
女湯に男女五人で入る。
それは「少し迷いました」では済まない。
他のお客様が恐怖を感じた時点で、もう事故だ。
その場にいた女性のお客様は、せっかく温泉に来たのに、ゆっくり入ることもできなかった。
お湯の温度を楽しむどころではない。
景色を見る余裕もない。
裸の状態で、見知らぬ男性と同じ空間にいる。
それがどれほど怖いか。
考えれば分かるはずだ。
いや、考えなくても分かってほしい。
私は受付で謝り続けた。
本当に申し訳ありません。
怖い思いをさせてしまいました。
すぐに確認いたします。
その言葉を何度も口にしながら、内心では煮えくり返っていた。
謝るのは私たち。
怖い思いをしたのはお客様。
でも、原因を作った人たちは、きっと軽い気持ちだったのだろう。
「ちょっとくらい」
「誰もいないと思った」
「面白そうだった」
そんな程度の感覚だったのかもしれない。
その軽さで、施設全体の信用が壊される。
たまったものではない。
その後、旅館として判断した。
日帰り入浴は、当面休止。
営業再開は未定。
この決定は簡単ではなかった。
楽しみに来てくださるお客様がいる。
売上もある。
遠くから足を運んでくれる人もいる。
でも、安全と安心を守れないまま営業はできない。
「また同じことが起きたら?」
その一言に、誰も答えられなかった。
貼り紙を出す時、手が少し重かった。
日帰り入浴は、利用者の不適切利用が発覚したため、営業を休止いたします。
なお、営業再開は未定です。
短い文章。
でも、その裏には悔しさが詰まっている。
本当はこんな紙、貼りたくなかった。
本当は、普通にマナーを守ってくれる人たちに温泉を楽しんでほしかった。
けれど、一部の非常識のせいで、まともなお客様まで利用できなくなる。
これが一番腹立たしい。
貼り紙を見た人たちは立ち止まった。
「何があったの?」
「不適切利用って?」
「日帰り入浴できないの?」
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
でも、同時に思った。
怒る相手を間違えないでほしい。
施設が意地悪で閉めているわけではない。
守らなければならない人がいるから閉めるのだ。
温泉は自由な場所ではある。
でも、何をしてもいい場所ではない。
裸になる空間だからこそ、信頼が必要だ。
その信頼を踏みにじる人がいるなら、施設は止めるしかない。
「旅館が怒りすぎ」と言う人もいるかもしれない。
でも、女性専用風呂に男女五人で入られて、笑って済ませる旅館の方が怖い。
私は最後に、空になった受付を見た。
いつもなら日帰り客でにぎわう時間。
そこにあるのは、静かな案内板と、休止を告げる紙だけだった。
三百二十段の先にあるお湯は、今日も変わらず湧いている。
でも、人のマナーが壊れれば、どんな名湯も閉じる。
温泉を止めたのは、お湯ではない。
非常識な人間の方だった。