駅の地下通路を歩いていた。
いつもの通勤時間だった。
天井の低い通路に、足音が反響している。
右からは改札へ向かう人。
左からはバス乗り場へ急ぐ人。
スーツ姿の男性。
買い物袋を下げた女性。
小さな子どもの手を引く親。
誰もが、いつものように歩いていた。
そこは歩行者専用の地下通路だった。
車が入る場所ではない。
当たり前すぎて、普段なら意識すらしない。
車道と歩道は違う。
地下通路と道路は違う。
小学生でも分かる。
そう思っていた。
その時だった。
奥の方から、変な音が聞こえた。
足音ではない。
キャリーケースの音でもない。
低いエンジン音。
ゴロゴロと、地下に響くような音。
私は思わず顔を上げた。
次の瞬間、目の前の景色が理解できなくなった。
黒い車がいた。
地下通路の真ん中に。
普通に。
まるで駅前ロータリーにでも入ってきたような顔で、歩行者専用の通路を進んできていた。
私は一瞬、固まった。
え。
車?
ここ、地下通路だよね?
私の頭が現実を処理する前に、周囲の人たちがざわつき始めた。
「危ない!」
「ここ車ダメですよ!」
「止まってください!」
何人かが声を上げた。
私も反射的に横へ避けた。
点字ブロックの上を車が塞ぐ。
ベビーカーを押していた人が慌てて壁際に寄る。
年配の男性が手すりにつかまって、目を見開いていた。
本来、人が安心して歩くための通路が、一瞬で避難路になった。
車はゆっくり進んでいた。
スピードが出ていなかったのがせめてもの救いだった。
でも、それで安全になるわけではない。
地下通路は車のために作られていない。
幅も狭い。
逃げ場も少ない。
曲がり角もある。
もし誰かが転んだら。
もし子どもが飛び出したら。
もし高齢者が動けなかったら。
考えただけで背中が冷えた。
運転席には、七十代くらいの女性がいた。
顔は前を向いたまま。
周囲の声が聞こえているのか、聞こえていないのか。
誰かが窓越しに注意しても、反応が薄い。
まるで、自分がとんでもない場所にいることに気づいていないようだった。
その様子が、余計に怖かった。
怒鳴って逆ギレする人も怖い。
でも、状況を理解していないまま進む車は、もっと怖い。
だって、止まる理由を本人が分かっていない。
こちらがどれだけ「危ない」と叫んでも、相手の中で危険信号が鳴っていなければ意味がない。
私は壁際に寄りながら、心臓が強く打つのを感じた。
こんな場所で、車にひかれるかもしれないと思う日が来るとは思わなかった。
横断歩道でもない。
駐車場でもない。
駅の地下通路だ。
歩行者専用だ。
それなのに、こちらが車から逃げている。
理不尽にもほどがある。
近くの男性が、車の前方へ回ろうとした。
でも、誰かが止めた。
「危ないから近づかないで!」
その判断は正しかったと思う。
車が止まは正しかったと思うるかどうか分からない。
運転手がブレーキとアクセルを踏み間違えたら、一瞬で事故になる。
注意したい。
止めたい。
でも、近づくのも危険。
そのもどかしさで、通路全体の空気が張り詰めた。
やがて、駅員か関係者らしき人が駆けつけた。
通行人たちは少しずつ誘導され、車の周囲に距離が作られた。
私はその様子を見ながら、怒りが遅れて湧いてきた。
どうしてここまで入ってきたのか。
入口で気づかなかったのか。
標識はなかったのか。
段差や構造で分からなかったのか。
理由はいろいろ考えられる。
でも、結果として歩行者が危険にさらされた。
そこは消えない。
高齢者だから仕方ない、で済ませていい話ではない。
誰でもミスはする。
道を間違えることもある。
でも、車を運転する以上、そのミスが人の命に直結する。
地下通路に車で入るというのは、道を一本間違えました、のレベルではない。
もはやジャンルが違う。
道路から駅構内へ、世界線ごと間違えている。
周囲の人たちは、しばらくざわついていた。
「怖かった」
「信じられない」
「子どもいたら危なかったよ」
誰かの声が、通路の壁に跳ね返った。
私も同じ気持ちだった。
怖かった。
そして、腹が立った。
歩行者専用という言葉は、飾りではない。
そこを歩く人の安全を守るためにある。
車が入ってこない前提で、人は安心して歩いている。
その前提を一台の車が破った瞬間、通路はただの危険地帯になる。
私は改札へ向かいながら、何度も振り返った。
あの車は、場違いという言葉では足りないほど浮いていた。
地下通路の真ん中に車。
注意しても無反応。
七十代の女性が運転。
ニュースの見出しなら一行で済む。
でも、その場にいた人間にとっては、心臓が冷える数分間だった。
もし誰かが巻き込まれていたら。
もし点字ブロックを頼りに歩く人がいたら。
もし幼い子が走っていたら。
「間違えました」では戻らない。
最後に私は思った。
車は便利だ。
でも、運転する人が場所を間違えた瞬間、便利な乗り物は凶器になる。
地下通路で必要なのは、アクセルではなく、足で歩く常識だ。
歩行者専用の地下道に車で入ってくるなんて、さすがに人生のナビを再起動した方がいい。