朝、会社に着いた瞬間から、嫌な予感がした。
いつもなら、ただの月曜の空気だった。
コピー機の音。
誰かの咳払い。
キーボードを叩く乾いた音。
私はいつものように席へ向かった。
そして、足が止まった。
机の上に、白いマスクが一枚置かれていた。
最初は落とし物かと思った。
でも違った。
マスクの表面に、黒い太い字でこう書かれていた。
「給料泥棒」
一瞬、視界が止まった。
給料泥棒。
その四文字だけが、やけに大きく見えた。
誰かが私の席に置いた。
私に見せるために。
私を傷つけるために。
朝の静かなオフィスで、私だけがその言葉に刺されていた。
指先が冷たくなる。
心臓が変な音を立てる。
怒りより先に、気持ち悪さが来た。
誰がやったのか。
すぐに頭に浮かんだ。
恐らく、例の上司だ。
でも、証拠はない。
だから断言はできない。
そこがまた腹立たしい。
直接言う勇気はない。
けれど、人の机には物を置く。
陰湿さだけは一人前。
以前から、その上司は私にだけ妙に当たりが強かった。
「最近、成果出てる?」
「それ、何時間かけたの?」
「給料分くらい働いてよ」
冗談のように言う。
でも目は笑っていない。
周りに人がいる時だけ、軽い口調で刺してくる。
私が黙ると、満足そうに笑う。
反論すれば、
「そんなつもりじゃない」
「冗談も通じないの?」
そう逃げる。
だから私は、今まで何度も飲み込んできた。
でも今回は違う。
言葉ではなく、物だ。
しかも、文字まで残っている。
私はマスクに触れなかった。
まずスマホを出した。
机全体を撮った。
マスクのアップを撮った。
時間が分かるように、パソコン画面と一緒に撮った。
自分の席だと分かる角度でも撮った。
手は震えていた。
でも、頭は冷えていた。
ここで怒鳴ったら負けだ。
犯人探しを始めたら、向こうは逃げる。
「知らない」
「誰かの悪ふざけじゃない?」
「証拠あるの?」
そう言われるのが目に見えている。
だから私は黙って記録した。
その四文字を、証拠として残した。
給料泥棒。
よくもまあ、人の机にそんな言葉を置けたものだ。
私は毎日出勤している。
仕事もしている。
ミスがあれば謝る。
分からないことは確認する。
完璧な社員ではないかもしれない。
でも、少なくとも誰かの机に嫌がらせのマスクを置くほど暇ではない。
本当に給料を盗んでいるのは、どちらなのか。
人を追い詰めることに時間を使っている人間の方が、よほど会社の時間を食いつぶしている。
昼休み、私は過去の出来事をメモにまとめた。
言われた言葉。
日付。
場所。
周囲にいた人。
メールで残っているやり取り。
会議での発言。
思い出すほど、胸が重くなった。
ああ、私はずっと我慢していたんだ。
ひとつひとつは小さく見える。
でも、積み重なると息ができなくなる。
紙で指を切るような嫌味が、何枚も何枚も重なっていた。
午後、例の上司が私の席の近くを通った。
一瞬、机を見た。
そして何も言わずに通り過ぎた。
その横顔を見て、私は逆に落ち着いた。
今は問い詰めない。
今は怒らない。
証拠を集める。
労基に行くために。
会社が「気のせい」で片づけられないように。
「冗談でした」で逃げられないように。
私は白いマスクを透明の袋に入れた。
指紋なんて取れるかは分からない。
でも、現物は残す。
写真も残す。
日時も残す。
感情ではなく、記録で返す。
その瞬間、少しだけ気持ちが戻ってきた。
向こうは私を黙らせるつもりで置いたのかもしれない。
傷つけて、萎縮させて、退職に追い込みたかったのかもしれない。
でも残念。
これは嫌がらせであると同時に、相手が自分から置いていった証拠品だ。
わざわざ私の席まで運んできてくれてありがとう。
大切に保管します。
「給料泥棒」と書かれたマスク。
不愉快で、腹立たしくて、最低の朝だった。
でも、私はもう黙って流さない。
給料を盗んでいるのは私ではない。
人の尊厳を削って、職場の空気を腐らせて、それでも平気な顔で席に座っている人間の方だ。
次に何か置かれたら、また記録する。
次に何か言われたら、日付も残す。
私は静かに証拠を積む。
そして、しかるべき場所へ持っていく。
陰でマスクを置く人間には、表で説明してもらう。
その時になって初めて分かるはずだ。
本当に盗まれていたのは、給料ではなく、私の安心して働く権利だったのだと。