昼休みを終えてオフィスに戻ったとき、私は一瞬、足を止めた。
自分のデスクの上に、見慣れない紙が一枚、ぽつんと置かれていたからだ。
白いコピー用紙。折りもせず、ただそのまま。
嫌な予感がした。
ゆっくりと近づき、手に取る。
そこに書かれていたのは、たった一言。
「ここ、臭いです。気をつけてください。」
——え?
一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。
「ここ」って……私の席?
つまり、「臭い」のは……私?
頭の中が一気にざわつく。
いや、そんなはずない。
私は毎日ちゃんとシャワーも浴びてるし、制汗剤も使っている。
服だって洗ってるし、香水だってきつくならないように気をつけてる。
むしろ「匂い」には人一倍敏感な方だと思っていた。
なのに——
なぜ、こんな形で?
周りを見渡す。
同僚たちは、いつも通りパソコンに向かっている。
誰もこちらを見ていない。
でも、逆にそれが怖かった。
「誰が書いたのか分からない」
この状況が、何よりも居心地が悪い。
午後の仕事は、まったく手につかなかった。
自分の体から、何か嫌な匂いがしている気がして、何度も腕や服の袖に顔を近づける。
でも——分からない。
本当に、分からない。
その日の夜、私は眠れなかった。
「もし本当に臭かったらどうしよう」
「みんな、ずっと我慢してたの?」
「だから直接言えずに、こんなメモを……?」
考えれば考えるほど、自分が透明な存在になった気がした。
いや、透明どころか——
“見えているのに、避けられている存在”
翌日、私は決めた。
逃げるのは、やめよう。
朝一番、私は上司の席に向かった。
「おはようございます。少しお時間よろしいですか?」
緊張で声が少し震えていた。
「昨日、デスクにこういうメモがあって……」
紙を差し出す。
上司は一瞬だけ目を細め、そして静かに言った。
「……これは、よくないね」
その日のうちに、全体ミーティングが開かれた。
内容はシンプルだった。
「職場でのコミュニケーションについて」
上司ははっきりと言った。
「気になることがあれば、適切な方法で伝えるべきです。匿名のメモで個人を傷つける行為は、ハラスメントと見なされる可能性があります。」
オフィスが静まり返る。
誰も何も言わない。
でも——その空気の中で、私は初めて「守られている」と感じた。
そして数日後。
一人の同僚が、私に話しかけてきた。
普段ほとんど会話しない人だった。
「……あの、ちょっといいですか」
ぎこちない声。
「その……この前のメモのことなんですけど……」
私は、黙って彼女を見た。
彼女は視線を落としたまま、小さく言った。
「書いたの、私です」
一瞬、時間が止まった。
怒りが込み上げる——かと思った。
でも、なぜか不思議と冷静だった。
「どうして、直接言ってくれなかったんですか?」
私の声は、思っていたよりも穏やかだった。
彼女はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……怖かったんです」
「前に、別の人に似たことを言ったら、すごく怒られて……それ以来、言えなくなって」
「でも……本当に辛くて……」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ緩んだ。
ああ、この人も——
逃げていたんだ。
私と同じように。
私は深く息を吸ってから言った。
「もし本当に気になることがあるなら、ちゃんと教えてください」
「改善できることは、ちゃんとしたいです」
「でも、ああいうやり方は……正直、すごく傷つきました」
彼女は何度も頭を下げた。
その後、私は改めて生活習慣を見直した。
食事、ストレス、衣類の管理。
そして一度、専門のクリニックにも相談した。
結果として、大きな問題はなかった。
でも——
「自分では気づけないことがある」
それだけは、はっきり分かった。
あのメモは、確かにひどいやり方だった。
でも同時に、見て見ぬふりをしていた“何か”を、強引に突きつけてきたのも事実だった。
そして今、私は思う。
職場で一番怖いのは——
「臭い」じゃない。
「言えない空気」だ。
もしあなたが同じ立場だったら——
直接言う?
それとも、黙って耐える?
それとも……あのメモを書く?