新幹線に乗るとき、私はよくパソコンを開いて仕事をする。移動時間を無駄にしたくないからだ。その日も同じだった。窓際の席はすでに埋まっていて、私は通路側。テーブルを出し、ノートPCを開き、静かに資料をまとめていた。
車内は平日の午後らしく落ち着いていた。キーボードの音と、新幹線特有の低い走行音が混ざるだけの静かな空間。そんな空気の中、突然、隣の窓側の男がガタンと立ち上がった。
次の瞬間だった。
男は何も言わず、そのまま体をこちらにねじ込むようにして通ろうとしてきた。
「すみません」もなければ、軽く会釈すらない。
しかも、イラついたように舌打ちまでしている。
そして――
男の肩が、私のノートPCにぶつかった。
画面がガクッと傾き、テーブルの上でPCが滑る。思わず手で押さえたが、心臓が一瞬ドキッとした。
私は思わず口を開いた。
「ちょっと、今PCぶつかりましたよ」
男は通路に出る途中で振り返り、明らかに不機嫌そうな顔でこちらを睨んだ。
「通路側でパソコンやってる方が邪魔だろ」
その言い方が、あまりにも当然のようで一瞬言葉に詰まった。
だが、すぐに違和感が込み上げてきた。
私は落ち着いて言った。
「通るなら、普通“すみません”って言いません?」
新幹線では、窓側の人が出入りする時、隣の人に一言声をかけるのが普通だ。
少なくとも、舌打ちして体を押し込むような通り方は見たことがない。
だが男は鼻で笑った。
「だから舌打ちしてんだよ」
その瞬間、車内の空気がピリッと張り詰めた。
さっきまで誰も気にしていなかった周囲の乗客が、こちらを見始める。
前の席の人、通路を挟んだ向かいの席の人。何人もの視線が集まっているのがわかった。
私はPCの画面を元の位置に戻しながら、もう一度だけ言った。
「ぶつかったのはそっちですよ」
男は何も言わず、通路に立ったままこちらを睨んでいる。
まるで、こちらが悪いと言わんばかりの顔だ。
そのときだった。
後ろの席から、静かな声がした。
「いや、それは違うでしょ」
振り返ると、スーツ姿の男性がこちらを見ていた。
「今ぶつかったの、あなたですよ」
男の表情が一瞬だけ変わる。
さらに、通路を挟んだ向かいの席の女性も口を開いた。
「普通は“すみません”って言いますよね」
別の乗客も小さくうなずいた。
それまで黙っていた車内の空気が、ゆっくりと変わっていくのがわかった。
さっきまで私に向いていた視線が、今度は男に集まっている。
男は口を開きかけたが、言葉が出ない。
誰も大声を出しているわけではない。
でも、静かな車内だからこそ、その空気ははっきり伝わる。
しばらくの沈黙のあと、男は小さく息を吐いた。
そして、ぼそっと言った。
「……すみません」
その声は、さっきの強気な態度とはまるで違っていた。
男はそれ以上何も言わず、通路から席へ戻った。
周囲の視線を避けるように座り、スマホを取り出して画面を見始める。
車内は再び静かになった。
私はPCの角度を直し、もう一度キーボードに手を置く。
後ろの席の男性と一瞬だけ目が合い、軽く会釈された。
向かいの席の女性も、少しだけ笑っている。
新幹線の車内では、知らない人同士が隣り合う。
だからこそ、お互いに少しだけ気を使う。
「すみません」
たったそれだけの一言で、ほとんどのことはうまくいく。
改めてそう感じながら、私は静かに作業を再開した。