香港旅行の二日目だった。
朝から湿気がすごかった。
外に出た瞬間、空気が肌にまとわりつく。
観光地を歩き回り、階段を上り、写真を撮り、気づけば喉はカラカラだった。
駅に入った時、私はもう完全に水のことしか考えていなかった。
目の前にはMTR。
涼しい車内。
清潔なホーム。
人の流れもスムーズで、さすが香港の地下鉄だなと思った。
友人の女の子も、かなり疲れていた。
帽子を深くかぶり、スマホを片手に持ったまま、ペットボトルの水を開けた。
「ちょっとだけ飲むね」
そう言って、彼女は本当に一口だけ飲んだ。
ごく普通の動作だった。
日本なら、電車で水を飲むくらい誰も気にしない。
暑い日ならなおさらだ。
私も何も思わなかった。
むしろ、倒れる前に飲んだ方がいいと思っていた。
ところが、その数分後だった。
係員らしき人が近づいてきた。
最初は道案内かと思った。
でも表情が硬い。
言葉は早く、英語と広東語が混ざっていて、私たちは一瞬理解が追いつかなかった。
ただ、相手が指さしているものは分かった。
ペットボトル。
水。
そして、車内。
私はそこで初めて嫌な予感がした。
「え、水もダメなの?」
友人の顔から、さっと血の気が引いた。
係員は淡々としていた。
怒鳴るわけではない。
でも、許す空気でもない。
MTRの車内では飲食禁止。
水も例外ではない。
違反として処理される。
そう説明された瞬間、私たちは固まった。
罰金は千香港ドル。
千香港ドル。
頭の中で日本円に換算しようとして、途中でやめた。
旅行中に急に出てくる金額としては、かなり痛い。
しかも理由が「水を一口飲んだ」。
友人は何度も説明しようとした。
「知らなかったんです」
「本当に水だけです」
「体調が悪くなりそうで」
でも、係員の対応は変わらなかった。
ルールはルール。
知らなかったでは済まない。
その言葉が、車内の冷房より冷たく感じた。
やがて発行された紙を見た時、現実味が一気に増した。
MTRの正式な領収書。
金額欄には、はっきりと「1000」と印字されている。
友人はその紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
さっきまで観光で笑っていた顔が、完全に消えていた。
私は横で何も言えなかった。
慰めようにも、言葉が軽すぎる。
「まあ勉強代だよ」なんて言える金額ではない。
「水で千ドル」は、勉強代にしては授業料が強すぎる。
駅を出たあと、私たちはしばらくベンチに座った。
友人はペットボトルを見つめていた。
まるで爆弾でも持っているみたいな顔だった。
「もう香港で水飲むの怖い」
その一言に、私はちょっと笑いそうになった。
でも笑えなかった。
気持ちは分かる。
もちろん、MTR側にも理由はあるのだろう。
車内を清潔に保つため。
匂いや汚れを防ぐため。
混雑時のトラブルを避けるため。
それは理解できる。
香港の地下鉄がきれいなのも、きっとこういう厳しさがあるからだ。
ただ、観光客の感覚では「水もダメ」というところで引っかかる。
食べ物なら分かる。
ジュースをこぼすのも分かる。
でも、水。
無味無臭の水。
こちらの常識ではセーフだと思ってしまう。
しかし、旅先で一番危ないのは、その「こっちの常識」だった。
国が変われば、電車のルールも変わる。
駅の雰囲気が日本と似ていても、同じ感覚で動くと痛い目を見る。
しかも今回は、財布に直接来た。
その後、私たちはMTRに乗るたびに異常なほど慎重になった。
ホームで水を飲む前にも確認。
改札内では飲まない。
車内では絶対に開けない。
ペットボトルのキャップを触るだけで、友人が「やめて」と言う。
完全にトラウマである。
でも、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。
旅行先では、知らないルールが一番怖い。
看板を見落とす。
周りが普通にしているように見える。
少しくらい大丈夫だと思う。
その「少し」で、千香港ドルが飛ぶ。
友人は最後にぼそっと言った。
「香港で一番高かった飲み物、水だったわ」
私はそこでついに笑った。
たしかにそうだ。
彼女が飲んだのは、ただのミネラルウォーター。
でも、その一口には千香港ドルの追加料金がついた。
高級レストランのドリンクどころではない。
香港に行く人に、私は今なら全力で言える。
観光地より先に、まずこれを覚えてほしい。
MTRでは飲まない。
水でも飲まない。
喉が渇いたら、乗る前か降りてから。
旅の思い出を「夜景」や「飲茶」ではなく、「水一口で