夕方、台所はすでに戦場だった。
仕事から帰ってきて、洗濯物を取り込み、子どもの連絡帳を見て、炊飯器のスイッチを入れる。
その合間に、私は鍋の前に立っていた。
今日の夕飯は肉じゃが。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
しらたき。
そして、牛肉。
少しだけ奮発した。
「今日は肉多めにしよう」
そう思って買ったのだ。
別に高級肉ではない。
でも、肉じゃがにおける肉は主役だ。
少なくとも、ただの飾りではない。
鍋の中で、甘じょっぱい匂いがふわっと立ち上る。
玉ねぎはとろけ、じゃがいもには味が染みている。
私は一口味見して、うなずいた。
うまい。
今日は勝った。
そう思った瞬間、子どもが呼んだ。
「ママ、これ見て!」
洗面所では洗濯機も鳴っている。
スマホにも通知。
全部が一気に来る。
私はリビングにいた夫へ声をかけた。
「ごめん、肉じゃが盛り付けてくれる?」
夫はソファから顔だけ上げた。
「いいよー」
その返事に、私は少し安心した。
たまには手伝ってもらってもいい。
鍋から器へよそうだけだ。
難しい作業ではない。
ただ、私は忘れていた。
うちの夫は、料理の盛り付けにおいて、なぜか人間性が出るタイプだった。
数分後、食卓に二つの器が並んだ。
私は席につき、箸を持った。
そして、自分の器を見た。
じゃがいも。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
また、じゃがいも。
私は一瞬、固まった。
肉は?
箸でそっと掘った。
下にも、じゃがいも。
右側にも、じゃがいも。
まるで芋掘り体験である。
隣を見ると、夫の器には肉が山のように乗っていた。
薄切り肉が何枚も重なり、玉ねぎの上で堂々と主張している。
ほぼ牛丼の上だけ。
私の器は、農協直売所。
夫の器は、焼肉定食。
私は静かに夫を見た。
夫は何も気づかず、満足そうに箸を伸ばしていた。
「いただきまーす」
その声が、やけに無邪気だった。
私は低い声で言った。
「ねえ」
夫の箸が止まった。
「なに?」
「私の肉、どこ?」
夫は私の器を見た。
次に自分の器を見た。
その瞬間、目が少し泳いだ。
「いや、たまたまじゃない?」
たまたま。
出た。
家庭内不平等の最終防衛ライン。
たまたま、肉が全部あなた側に行った。
たまたま、私の器にじゃがいもが集合した。
たまたま、あなたの器だけ肉フェスが開催された。
そんなわけがない。
私は鍋の中を確認した。
残っていたのは、ほぼ煮汁と玉ねぎの破片だけ。
完全に終わっている。
つまり、肉はもう移動済み。
移動先は夫の器。
犯行は明白だった。
夫は慌てて言った。
「いや、肉が上の方にあったからさ」
「だから?」
「先に取れちゃったというか」
「取れちゃった?」
私は箸を置いた。
台所の空気が少し冷えた。
肉じゃがでここまで緊張感が出る家庭も珍しい。
夫は一枚だけ肉を私の器に移そうとした。
私はそれを手で止めた。
「今さら一枚寄付されても、慈善事業じゃないんだよ」
夫は黙った。
私は自分の器を見た。
味の染みたじゃがいもはおいしい。
それは認める。
でも問題はそこではない。
私は肉が食べたかったのだ。
しかも、自分で作った肉じゃがの肉を。
夫に盛り付けを頼んだだけで、なぜ私はじゃがいも担当大臣に任命されているのか。
私は考えた。
これは単なる盛り付けミスではない。
家庭内でよくある「自分の皿だけ無意識に良くする問題」だ。
唐揚げなら大きい方を取る。
刺身ならきれいな切り身を取る。
肉じゃがなら肉を取る。
本人は悪気がないと言う。
でも、悪気がないまま得をする人間が一番強い。
夫はまだ言い訳を探している顔をしていた。
「そんなに怒ること?」
その一言で、私の中の煮汁が沸騰した。
「怒ることでしょ。私は肉じゃがを作ったの。じゃがじゃがを作ったんじゃないの」
夫は吹き出しかけて、すぐに真顔に戻った。
笑ったら終わると本能で察したらしい。
その日は結局、夫の器から肉を半分回収した。
回収というより、返還である。
私は堂々と箸で肉を取り戻した。
夫は何も言わなかった。
言える立場ではない。
翌日、私はカレーを作った。
そして夫にだけ、じゃがいもとにんじん多め、肉少なめで盛り付けた。
夫は皿を見て、すぐに気づいた。
「これ、昨日のやつ?」
私はにっこり笑った。
「たまたま」
夫は黙ってスプーンを持った。
その姿を見て、私は少しだけ気が晴れた。
夫婦生活とは、こういう小さな事件の積み重ねだ。
大きな裏切りではない。
でも、肉じゃがの肉を全部持っていかれると、人はちゃんと傷つく。
そして学ぶ。
夫に盛り付けを頼む時は、信頼ではなく監視が必要だ。
次から私は、鍋の横に立つ。
肉の分配が終わるまで、絶対に目を離さない。
我が家の平和は、じゃがいもの量ではなく、肉の公平性によって守られている。