新幹線のグリーン車で、少し考えさせられる出来事があった。
その日、私は足の悪い母を連れて東北新幹線に乗っていた。母は膝を痛めてから長距離を歩くのが難しく、外出の時は杖が手放せない。今回もゆっくり旅行をするつもりで、少しでも楽に過ごせるようにグリーン車を選んだ。
発車してしばらく経った頃だった。
車内は静かで、ほとんどの乗客がスマホを見たり、眠ったりしている。そんな中、ふと前方を見ると、通路にベビーカーが大きくはみ出しているのが目に入った。
中では小さな赤ちゃんがぐっすり眠っている。おそらく生後半年ほどだろうか。母親は隣の席でスマホを見ながら静かに座っている。
正直、気持ちは分かる。赤ちゃんが寝ている時にベビーカーを畳むのは大変だろう。
ただ――。
新幹線の通路は、ただの通路ではない。非常時には避難動線にもなる場所だ。
それに何より、ベビーカーは完全に通路側にはみ出していた。人が通れないわけではないが、少し気をつけなければ引っかかりそうな位置だった。
私は母の様子を見ながら、「ゆっくり行こう」と声をかけ、通路を進んだ。
その瞬間だった。
母の杖の先が、ベビーカーのタイヤに引っかかった。
「っ…!」
母の体がぐらりと揺れる。
私はとっさに腕を掴んで支えた。一歩間違えば、そのまま倒れていたかもしれない。
「大丈夫!?」
思わず声が大きくなった。
母は少し息を整えながら、小さく笑った。
「びっくりしたね…」
しかし、私は笑えなかった。母の足は本当に弱っている。転倒すれば大怪我になる可能性もある。
ちょうどその時、通路の向こうから車掌が歩いてきた。
私は事情を説明した。
「すみません、このベビーカー、通路にはみ出していて…母が今、引っかかって転びかけたんです」
車掌はベビーカーを一瞬見た。
そして――
「通れますので、大丈夫だと思います」
そう言って、そのまま歩き去ってしまった。
一瞬、言葉が出なかった。
え…?
今の状況で、それだけ?
周囲の乗客も少しざわついたが、誰も何も言わない。車内はまた静かになった。
母は私の顔を見て言った。
「もういいよ。通れたし」
でも、私はどうしても納得できなかった。
通れたからいい?転ばなかったからいい?
もし本当に転んでいたらどうするつもりだったのか。
私は席に戻りながら考えた。そして、やはり黙っているのは違うと思った。
もう一度、デッキの方へ行き、別の車掌に声をかけた。
「さっき通路のベビーカーで、母が転びかけました。あれは危ないと思います」
私の言葉を聞いた車掌の表情が変わった。
「それは申し訳ありません。確認いたします」
数分後。
さっき素通りした車掌が戻ってきた。
そしてベビーカーの母親に丁寧に声をかけた。
「申し訳ありませんが、通路に少しはみ出しておりますので、位置を調整していただけますでしょうか」
母親は少し驚いた顔をしたが、周囲の視線に気づいたのか、黙ってベビーカーを動かした。
通路は一瞬で広くなった。
たったそれだけのことだった。
さっき、母が転びかける前にやってくれていれば、何の問題もなかったことだ。
私は母の席に戻った。
母は静かに言った。
「言ってくれてよかったよ。さっき本当に危なかったから」
その時、通路を通りながら年配の男性がぽつりと呟いた。
「通路は塞いじゃダメだよな」
それを聞いた瞬間、さっきまで見て見ぬふりだった車内の空気が、少しだけ変わった気がした。
私は改めて思った。
子どもがいることは、もちろん大変だ。でも――
公共の場所では、誰かが危険にさらされていい理由にはならない。
そしてもう一つ思った。
最初から誰かが一言言っていれば、母が転びかけることも、車内が気まずい空気になることもなかったはずだ。
静かな新幹線の車内で、ようやく通路は本来の広さを取り戻していた。
そして私は心の中で、こう思った。
グリーン車は「静かに我慢する場所」じゃない。安全に移動するための場所なんだ。
今回は、ちゃんと動いてくれる人がいた。
それだけで、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。