「牛乳、今日はやめます」
レジ前で、おばあさんがそう言って、カゴの中から小さな牛乳パックを戻した。
パンと卵と、薄い肉のパック。
それだけだった。
店員さんが合計金額を伝えると、おばあさんは財布の小銭入れを開いて、指先で何度も数え直していた。
足りないわけじゃない。
たぶん、今ここで買ったら、明日か明後日の分が苦しくなる。
そういう顔だった。
私は後ろに並んでいて、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。
おばあさんは申し訳なさそうに笑って、
「年金日まで、あと少しだから」
と小さく言った。
その言葉で、店員さんの手が止まった。
聞けば、その人は若い頃からずっと働いて、40年近く年金を納めてきたらしい。
それでも、今の暮らしは月7万円前後。
家賃、電気、薬代、食費。
何を先に削るかを、毎日考えていると言っていた。
怒鳴ったわけじゃない。
誰かを責めたわけでもない。
ただ、牛乳を戻しただけ。
それが余計にきつかった。
その時、後ろのほうから大きな声が聞こえた。
「生活保護の申請って、医療費も家賃も相談できるんですよね?」
電話で役所に確認している声だった。
永住資格がどうとか、必要書類がどうとか、そんな話も聞こえた。
その人が悪いと言いたいんじゃない。
困っている人を助ける制度は必要だと思う。
でも、目の前で40年まじめに払ってきた人が牛乳を諦めている。
その横で、制度を使えば支えられるものがいくつもある。
この差を見た瞬間、私はどうしても黙っていられなかった。
「すみません、その牛乳、私が買います」
思わずそう言った。
おばあさんは慌てて首を振った。
「いいのよ、そんなことしてもらう理由がないから」
その言い方がまた、苦しかった。
我慢することに慣れすぎている人の言葉だった。
すると、レジの店員さんが静かに店長を呼んだ。
店長は事情を聞くと、私に向かってこう言った。
「お客様のお気持ちは分かります。でも、これは店としてやらせてください」
そう言って、牛乳と卵を袋に入れた。
もちろん、店が毎回そんなことをできるわけじゃない。
でも店長は、おばあさんに押しつけるような渡し方はしなかった。
「今日、賞味期限の近い商品を確認していたところです。よろしければ、持って帰ってください」
そう言った。
おばあさんは何度も頭を下げていた。
その姿を見て、私は情けなくなった。
本当は、スーパーの店長が気を遣う話じゃない。
隣に並んだ客が牛乳代を出す話でもない。
40年払ってきた人が、レジ前で小さな牛乳を戻さなくていい社会にする話だ。
困っている人を助ける制度は必要。
でも、真面目に納めてきた人が一番遠慮して、一番静かに削られていく仕組みは、どう考えてもおかしい。
帰り際、おばあさんが袋を抱えて私に言った。
「怒ってくれる人がいるだけで、少し救われるね」
その一言で、私は余計に腹が立った。
救われるべき人が、こんな小さなことで頭を下げている。
この国は、もっと先に見るべき人を間違えていると思う。
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