その人は、最初から妙に感じがよかった。
店に入ってきた時も、静かに頭を下げた。
「一人です」
そう言って、奥の席に座った。
年齢は二十九歳だと言っていた。
話し方も丁寧。
声も落ち着いている。
服装も普通。
注文の仕方も迷惑な感じはまったくなかった。
私はその時、何も疑っていなかった。
むしろ、感じのいいお客さんだと思っていた。
料理を運ぶと、その人は小さく笑って、
「ありがとうございます」
と言った。
箸を取る手つきも自然だった。
スマホを少し見て、料理を食べる。
水を飲む。
時々、店内を見回す。
どこにでもいる普通のお客さん。
本当に、それだけだった。
会計の時間になるまでは。
食事を終えたその人は、レジの方へ来た。
そして、少し困ったような顔をした。
「あ、すみません。現金が足りないみたいで」
私は一瞬、身構えた。
こういうことは、たまにある。
財布を忘れた。
カードが使えない。
電子マネーが残高不足。
珍しくはない。
だから、こちらも最初から疑ったりはしない。
その人は続けた。
「近くでお金をおろしてきます。財布、ここに置いていきますので」
そう言って、使い古された財布をカウンターに置いた。
財布を置いていく。
その行動が、妙に誠実に見えた。
逃げるつもりなら、財布なんて置いていかない。
そう思ってしまった。
私は少し迷ったが、了承した。
「では、戻られたらお会計お願いします」
その人はまた丁寧に頭を下げた。
「すぐ戻ります」
そう言って、店を出ていった。
ドアが閉まる。
私はカウンターの上の財布を見た。
古い財布だった。
角は擦れている。
表面もくたびれている。
長く使っているものに見えた。
だから余計に安心してしまった。
本当に戻るつもりなのだろう、と。
五分。
十分。
十五分。
戻ってこない。
最初は、銀行が混んでいるのかと思った。
近くのATMで手間取っているのかもしれない。
財布を置いていったのだから、まさか逃げるはずがない。
そう自分に言い聞かせた。
でも、三十分を過ぎた頃、店の空気が変わった。
スタッフが私を見る。
私も時計を見る。
財布は同じ場所にある。
持ち主だけが、いない。
嫌な予感が、少しずつ形になっていった。
私は財布を開けるべきか迷った。
お客様のものだ。
勝手に触るのは気が引ける。
でも、すでに会計は済んでいない。
本人は戻らない。
緊急の確認ということで、慎重に開けた。
中には、何も入っていなかった。
本当に何も。
現金もない。
カードもない。
身分証らしきものもない。
レシートすらほとんどない。
空っぽだった。
私は思わず笑ってしまった。
もちろん、楽しい笑いではない。
あまりにも見事だったからだ。
財布を置いていくことで信用させる。
でも、その財布には価値のあるものが入っていない。
つまり、最初から置いていくための財布。
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