仕事帰りの新幹線だった。
その日は朝から会議続きで、立ちっぱなし、歩きっぱなし。
正直、足は限界だった。
だからこそ、少しでも楽をしようと指定席を取っていた。
私は自分の席へ向かった。
ところが席を見た瞬間、足が止まった。
おばあさんが座っていたのだ。
しかも深くもたれかかるようにして眠っている。
最初は見間違いかと思った。
だがチケットを確認しても間違いない。
そこは私の席だった。
少し迷ったが、このまま立つわけにもいかない。
私はできるだけ小さな声で言った。
「すみません、ここ私の席なんですが……」
すると突然、横から声が飛んできた。
「やめてください」
振り向くと、おじいさんが睨むようにこちらを見ていた。
「この人、疲れて寝てるんです」
「起こさないであげてくれませんか」
私は一瞬言葉を失った。
「でも、ここ私の指定席なんです」
そう説明しても、おじいさんは納得しない。
むしろ不機嫌そうに言った。
「見れば分かるでしょ」
「座ってるんだから」
周囲の乗客もこちらを見始める。
私はチケットを見せた。
だがおじいさんは鼻で笑った。
そして言った。
「若いんだから立てばいいだろ」
その瞬間、何かが冷めた。
ああ、この人は優しいんじゃない。
人の善意を勝手に使って気持ちよくなっているだけなんだ。
私は静かに言った。
「すみません、それは違うと思います」
「ここは私が料金を払って取った席です」
するとおじいさんはさらに続けた。
「この人は疲れてるんだよ」
「あなたは元気そうだし」
私は深く息を吸った。
そして言った。
「じゃあ」
おじいさんが怪訝そうな顔をする。
「あなたが席を代わってください」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
「お連れ様なんですよね?」
「疲れている方を座らせたいなら、あなたが立てばいいと思います」
おじいさんの顔が真っ赤になった。
「なんで俺が立つんだ」
「おかしいだろ」
私は首を横に振った。
「おかしくないです」
「私の席を譲れと言うなら、まず自分が譲るべきじゃないですか」
周囲から小さなざわめきが起きた。
誰も口には出さない。
だが空気は完全に変わっていた。
数秒後。
おじいさんは舌打ちした。
そして乱暴に立ち上がった。
私はやっと終わったと思った。
ところが次の瞬間。
ドンッ。
鈍い音がした。
見ると、おじいさんは私のスーツケースの上に腰を下ろしていた。
「これでいいだろ」
周囲から驚きの声が漏れる。
私はしばらく言葉が出なかった。
そして静かにスマホを取り出した。
「そういうことするんですね」
おじいさんは何も答えない。
私は通路側を見て声を上げた。
「すみません、車掌さんをお願いできますか」
その瞬間だった。
おじいさんの表情が少しだけ変わった。
数分後、車掌がやってきた。
私はチケットを見せて事情を説明した。
車掌は確認すると、おじいさんへ向き直った。
「こちらのお席は、この方の指定席です」
「お連れ様も含め、正しいお席へご移動をお願いします」
たったそれだけだった。
だがおじいさんは何も言い返せなかった。
さっきまでの勢いはどこにもない。
周囲の視線が一斉に集まる。
逃げ場はなかった。
結局、おじいさんは黙ったまま立ち上がった。
おばあさんも起こされ、別の車両へ移動していった。
私はようやく自分の席へ座った。
深く息を吐く。
本当に疲れていたのだ。
数分後、周囲からひそひそ声が聞こえた。
でももう気にしなかった。
目を閉じながら思った。
優しさは大切だと思う。
だが、本当に優しい人は他人に犠牲を強要しない。
自分が何も失わずに他人へ譲れと言う人は、優しいのではなく無責任なだけだ。
そしてルールは、守るためにある。
遠慮するためにあるわけではない。
あの日、一番疲れていたのは私かもしれない。
でも一番居心地が悪そうだったのは、間違いなくあのおじいさんだった。
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