夕方の出来事だった。
私はリビングで1歳の次男を見ながら、キッチンで夕飯の準備をしていた。小2の長男はいつものように家の中を走り回ったり、次男と遊んだりしていた。うちは階段のある家なので、階段の入口には子どもが勝手に登らないよう安全用の扉をつけている。
普段は必ず閉めるようにしている。
その日も、長男には何度も言っていた。
「階段の扉、ちゃんと閉めてね。」
長男も「うん」と答えていた。
だが――
ほんの数分の出来事だった。
キッチンでフライパンを見ていた時、背後から
「ドンッ!」
という鈍い音が聞こえた。
次の瞬間、次男の泣き声が家中に響いた。
私は血の気が引いた。
慌てて振り返ると、階段の下で次男が泣いていた。長男はその横で固まったように立っている。
階段の扉は――
開いていた。
次男は階段を登ってしまい、4段目あたりから転げ落ちたらしい。
私は急いで抱き上げた。
「大丈夫!?大丈夫!?」
次男は大声で泣いていたが、意識はある。手足も動いている。
だが、よく見ると目の下が切れている。
血は大量ではないが、じわっとにじんでいる。
目の周りも少しずつ青くなってきていた。
私は震える手でスマホを取り、#8000に電話した。
事情を説明すると、
「今すぐの緊急性は高くなさそうですが、明日の朝一番で病院を受診してください」
と言われた。
電話を切った時、少しだけ安心した。
次男は泣き疲れたのか、私の腕の中で落ち着いてきた。
その時だった。
リビングにいた夫が、長男に向かって言った。
「お前が扉を開けたままにするからだろ。」
一瞬、空気が止まった。
長男は固まった。
夫は続けて言った。
「ちゃんと閉めろって言われてただろ。」
それだけ言うと、夫はそのまま寝室へ行ってしまった。
私は思わず声を上げた。
「はぁ?」
信じられなかった。
確かに扉は開いていた。長男が閉め忘れたのかもしれない。
でも――
相手は小2の子どもだ。
私は長男の方を見た。
長男は何も言わず、ソファに座っていた。
普段なら次男が泣けば慌てて「大丈夫!?」と騒ぐ子だ。それなのに、その日はずっと黙っていた。
しばらくして、私は声をかけた。
「どうした?」
その瞬間だった。
長男の顔がぐしゃっと歪んだ。
そして――
ボロボロと泣き始めた。
「ぼく……ぼく……」
言葉にならない声だった。
その姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。
私は長男を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫。」
長男は泣きながら言った。
「ぼくが……ドア……」
私はすぐに首を振った。
「違うよ。」
そしてはっきり言った。
「長男のせいじゃないよ。」
長男は涙でぐちゃぐちゃの顔で私を見た。
私は続けた。
「ママが見てなかったからだよ。」
本当は、完全に誰のせいとも言い切れない。
事故だ。
でも――
少なくとも。
小2の子どもに全部背負わせる話じゃない。
私は長男の頭を撫でながら言った。
「びっくりしたよね。」
長男はうなずいた。
「弟が落ちるの見たんだもんね。怖かったよね。」
長男はまた泣いた。
その時、寝室のドアが開いた。
夫が顔を出した。
「まだ泣いてんの?」
その言い方に、私は一瞬で頭に血が上った。
「あなたさ。」
夫は不機嫌そうに言った。
「だってあいつが扉閉めなかったんだろ。」
私は立ち上がった。
「だからって、小2の子どもに全部押し付けるの?」
夫は肩をすくめた。
「ルール守らないから事故になるんだろ。」
私は思わず言い返した。
「親が見てなかったのが悪いんでしょ。」
夫は黙った。
私は続けた。
「1歳の子がいる家で、階段の管理するのは誰?」
夫は何も言わない。
「長男?」
「それとも大人?」
リビングは静まり返った。
長男は泣きながらこちらを見ている。
私はゆっくり言った。
「子どもに責任押し付ける前に、大人が反省するのが先じゃない?」
夫はしばらく黙っていた。
そして、小さく舌打ちすると、また寝室へ戻っていった。
ドアが閉まる音がした。
私は深く息を吐いた。
長男はまだ涙を拭いていた。
私はもう一度しゃがみ、目を合わせて言った。
「長男。」
長男は不安そうにこちらを見る。
私は笑って言った。
「でも、ドア閉め忘れたのは気をつけようね。」
長男は少しだけ笑った。
「うん。」
私は頭を撫でながら思った。
事故は防げたかもしれない。
でも――
一番守らなきゃいけないのは、子どもの心だ。