私は昔から化粧が好きではなかった。
肌が弱いこともあるし、何より面倒だった。
その代わり、身だしなみには気を付けていた。
髪は整える。
爪も清潔にする。
服もきちんと洗濯する。
人と接する仕事だからこそ、不潔に見えないことは意識していた。
だから自分では何も問題ないと思っていた。
その日もいつも通りアルバイト先へ出勤した。
昼休憩の時だった。
男性社員のAさんが突然言った。
「〇〇さんってさ。」
私は顔を上げた。
「はい?」
Aさんは笑いながら言った。
「なんで化粧しないの?」
私は少し驚いた。
「特に必要ないと思ってるので。」
するとAさんは首を振った。
「いやいや。」
「女性なんだから化粧は礼儀でしょ。」
周囲が静かになる。
私は聞き返した。
「礼儀ですか?」
Aさんは得意そうに続けた。
「接客業なんだし。」
「お客さんに失礼じゃない?」
「社会人のマナーだと思うよ。」
私はしばらくAさんを見ていた。
寝癖が残っている髪。
少しよれたシャツ。
無精ひげ。
その姿で「礼儀」を語っている。
不思議だった。
私は静かに聞いた。
「じゃあ男性も化粧するべきなんですか?」
Aさんは笑った。
「男は別でしょ。」
その瞬間、私は呆れてしまった。
結局それなのだ。
礼儀ではない。
女性だけに求めている。
私は椅子から少し身を乗り出した。
そして笑顔で言った。
「分かりました。」
Aさんも満足そうに頷く。
私は続けた。
「じゃあ明日からAさんも化粧して出勤してください。」
空気が止まった。
Aさんの笑顔が消える。
「え?」
私は真顔で言った。
「礼儀なんですよね?」
「お客様に失礼なんですよね?」
「社会人のマナーなんですよね?」
「なら男女関係ないですよね。」
誰も話さない。
数秒間の沈黙が流れた。
Aさんは顔を赤くしながら言った。
「いや、そういう意味じゃ…」
私は頷いた。
「私もそういう意味じゃないと思います。」
周囲から小さな笑い声が聞こえた。
それ以上Aさんは何も言えなかった。
その日以降、私の化粧について話題にする人はいなくなった。
私は今でも化粧をしていない。
でも髪は整えているし、身だしなみも清潔だ。
大切なのは化粧をしているかではない。
相手に求めるルールを、自分にも同じように適用できるかどうかだと思う。
少なくとも私は、
女性だけに押し付けられる「礼儀」に従うつもりはない。
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