その日は、朝から腰の調子が最悪でした。
湿布を貼って仕事へ行き、帰る頃には、立っているだけでも痛い。
「今日は座れたらいいな……」
そう思いながら、地下鉄に乗り込みました。
夕方の車内は混雑していて、空席なんてほとんどありません。
でも、車両の奥にひとつだけ、空いている席が見えたんです。
「助かった……」
私はほっとして近づきました。
ただ、少し違和感がありました。
その席の両側に、大学生くらいの男の子が二人座っていて、大声で喋っていたんです。
しかも、片方は肘を広げ、もう片方は足を投げ出している。
明らかに、“誰も座らせない空気”を作っていました。
でも、私は本当に腰が限界でした。
だから勇気を出して、
「すみません、そこ座ってもいいですか?」
と声をかけました。
すると、左側の男が私を見て笑いました。
「は?喋ってるの見てわからない?」
一瞬、耳を疑いました。
周囲も少し静かになります。
でも私は、もう一度だけ言いました。
「だから、聞いたんですけど」
すると今度は、右側の男が鼻で笑いながら言いました。
「じゃあダメw」
その瞬間。
二人は顔を見合わせて、クスクス笑い始めたんです。
……悔しかった。
でも同時に、すごく情けなかった。
言い返したら、面倒になる。
周りも誰も助けてくれない。
私は小さく息を吐いて、吊革に戻ろうとしました。
その時でした。
「おねーさん」
低い声が聞こえました。
見ると、少し離れた場所に座っていた、コワモテのお兄さんがこちらを見ていました。
黒いパーカー。腕も太い。
正直、最初はちょっと怖そうだと思っていました。
そのお兄さんは立ち上がると、私に向かって言いました。
「俺そっち行くから、ここ座りな」
そしてそのまま、二人の大学生の間へ――
“ドン”
と座ったんです。
かなり大きめに。
腕を組み、背もたれに深く寄りかかる。
さっきまで笑っていた二人は、一瞬で黙りました。
というか、喋れない。
物理的にも、空気的にも。
車内の空気が、完全に変わったのが分かりました。
私は思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、お兄さんが空けてくれた席へ座りました。
大学生二人は、スマホを見るフリを始めました。
でも、耳まで真っ赤。
周囲の乗客も、なんとなく空気を察していました。
さっきまで偉そうだったのに、今は完全に小さくなっている。
しかも、お兄さん。
何も言わないんです。
説教もしない。
睨みもしない。
ただ、真ん中に座ってるだけ。
なのに、圧がすごい。
しばらくして、電車が次の駅に止まりました。
大学生の一人が、小声で、
「……降りる?」
と聞きました。
でももう一人は、お兄さんを挟んでるせいで、聞こえないフリ。
結局二人は、妙な姿勢のまま固まっていました。
私はもう、笑いを堪えるのに必死でした。
数駅後。
私が降りるタイミングになり、お兄さんへ頭を下げました。
「ありがとうございました」
するとお兄さんは、少し照れたみたいに笑って、
「困ってる人いたら普通っしょ」
と言ったんです。
その瞬間、なんだか泣きそうになりました。
最近、見て見ぬふりする人って多い。
面倒事に関わりたくない人も多い。
でも、あの日の地下鉄で思ったんです。
本当に怖い人って、見た目じゃない。
そして、本当にカッコいい人も、見た目じゃないんだって。