
その日の朝の電車は、いつもより少し混んでいた。
私はドア付近に立ち、吊り革を握っていた。
次の駅で、少し年配の女性が乗ってきた。
50代くらいだろうか。
人の間をぐいぐい押しながら、私のすぐ横に立った。
その瞬間だった。
ドン。
いきなり、肘が脇腹に入った。
思わず声が出た。
「痛っ」
女性は何も言わない。
もう一度、同じように押してくる。
明らかに わざと だった。
私は思わず言った。
「すみません、やめてもらえますか?」
すると女性は振り向き、突然大きな声を出した。
「ちょっと!何触ってるの!」
車内の空気が、一瞬で変わった。
数人の乗客がこちらを見る。
女性はさらに声を上げた。
「この人、痴漢です!」
頭が真っ白になった。
「え?」
何を言っているのか理解できなかった。
私は慌てて言った。
「いや、違います。
肘が当たって…」
しかし女性は止まらない。
「さっきから体触ってくるんです!」
周りの視線が一気に集まった。
その時、初めて思った。
終わったかもしれない。
痴漢冤罪。
一瞬で人生が壊れる話は、何度も聞いていた。
次の駅で電車が止まった。
私は迷わず言った。
「駅員呼びます」
女性は少し驚いた顔をした。
ホームに降り、駅員を呼んだ。
事情を説明すると、警察が呼ばれた。
女性はまだ怒っていた。
「絶対この人です!」
私は言った。
「車内カメラ見てください」
最近の電車には、防犯カメラがある。
警察はその場で確認を始めた。
数十分後。
警察が私に言った。
「痴漢行為は確認されません」
胸の奥が一気に軽くなった。
しかし、それだけでは終わらなかった。
警察は女性に言った。
「ですが、あなたが肘打ちしている映像は確認できます」
女性の顔が変わった。
私は病院に行き、診断書を取った。
そして決めた。
刑事告訴する。
ただのトラブルではない。
もしあの時、私が何も言えなかったら。
もしカメラが無かったら。
私は今頃、
痴漢として扱われていたかもしれない。
その後、弁護士と相談しながら手続きを進めた。
SNSでもこの件は広まり、
約3000人の署名が集まった。
多くの人が言ってくれた。
「絶対に許してはいけない」
私もそう思っていた。
しかし。
数ヶ月後。
検察から通知が届いた。
紙を開いた瞬間、目に入った文字。
不起訴
一瞬、意味が理解できなかった。
不起訴。
つまり――
誰も罪に問われない。
肘打ちの証拠はある。
診断書もある。
車内カメラもある。
そして私は痴漢ではないと証明された。
それでも結果は、
不起訴。
理由の説明はほとんど無かった。
私はしばらく紙を見つめていた。
怒りというより、
虚しさ が残った。
もし私が運悪く、
証拠が無かったら。
もしあの女性の言葉だけが残ったら。
私は今頃どうなっていたのか。
会社は?
家族は?
人生は?
すべて壊れていたかもしれない。
それでも、この国の司法は
「起訴する必要はない」
と判断した。
私はSNSに結果を投稿した。
多くの人が怒りのコメントをくれた。
しかし、もう一つ思った。
今回、私が助かったのは
証拠があったからだ。
カメラがあったからだ。
もし無かったら――
そう考えると、今でも背中が冷たくなる。
電車の中で、
誰かと少しぶつかっただけで
人生が終わる可能性がある。
そういう社会に、
私たちは立っているのかもしれない。
だから今でも思う。
あの日、
私は本当に 運が良かっただけ だった。