その日、私は高崎線のグリーン車に乗っていた。
昼過ぎの時間帯で、車内はそこまで混んでいない。グリーン車らしく、全体的に落ち着いた雰囲気だった。多くの乗客が静かにスマホを見たり、軽く目を閉じて休んでいる。
次の駅でドアが開き、私はデッキの方へ歩いた。
そのときだった。
目の前に、巨大なベビーカーが置かれていた。
しかも完全に広げた状態で、通路の真ん中に近い位置だ。
一瞬、「あれ?」と思った。
よく見ると、そのベビーカーにはバッグまで掛けてある。下の収納には荷物も入っているようだった。
つまり——
誰かのベビーカーが、完全に放置されている。
問題は場所だった。
そこは車両の連結部分、つまり乗り降りする人が必ず通る場所だ。
ドアが開くと、乗客が次々にデッキへ出てくる。
しかし、そのベビーカーのせいで通路がかなり狭くなっている。
人が通るたびに、みんな少し体を横にして避けている。
スーツ姿の男性が小さく舌打ちをした。
「邪魔だな……」
確かにそうだった。
普通なら折り畳むか、端に寄せるかするはずだ。
私は思った。
「これ、忘れ物なのかな?」
しかしよく見ると、バッグがしっかり掛かっている。
忘れ物にしては、妙に生活感がある。
そのとき、後ろから来た女性が言った。
「危ないですね、これ。」
小さな子どもを連れた母親だった。
彼女も少し困ったような顔をしている。
「持ち主、どこなんでしょう。」
その言葉に、私も周囲を見回した。
すると——
すぐに分かった。
デッキのすぐ隣の車両。
窓側の席に座っている女性が、スマホを見ながらくつろいでいる。
その足元には、ベビーカーの子どもがいない。
つまり、子どもを抱いたまま座っていて、
ベビーカーだけをデッキに放置している状態だった。
私は一瞬迷った。
しかし、このままだと明らかに危ない。
ドアが開くたびに、人がぶつかりそうになっている。
私はその女性の席の近くまで行き、声をかけた。
「すみません。」
女性はゆっくり顔を上げた。
「はい?」
私はデッキを指さした。
「ベビーカー、通路に置いたままなんですが……」
すると女性は、ちらっとデッキの方を見て言った。
「はい。」
それだけだった。
まるで、何も問題がないかのような返事だ。
私は少し言葉を選びながら言った。
「乗り降りする人が通れなくて、ちょっと危ないので……」
すると女性は、少し不機嫌そうな顔をした。
そして、こう言った。
「子ども抱いてるんで。」
その言い方は、完全に**「仕方ないでしょ」**というニュアンスだった。
私は一瞬、言葉に詰まった。
確かに、子どもを抱いているのは大変だ。
だが、だからといって通路を塞いでいいわけではない。
そのとき、後ろから声がした。
「いや、それは違うでしょ。
」
振り向くと、先ほど舌打ちしていたスーツの男性だった。
彼はデッキを指さして言った。
「みんな通れなくて困ってますよ。」
さらに通路側の席からも声が上がった。
「危ないですよ、それ。」
車内の空気が少し変わった。
女性は周囲を見回した。
どうやら、自分が思っているより多くの人が困っていることに気づいたらしい。
数秒の沈黙。
そして彼女は小さくため息をついた。
「……分かりました。」
そう言って立ち上がり、デッキへ向かった。
ベビーカーを少し端に寄せ、通路を空ける。
その動きは、どこか不満そうだった。
しかし、通路は一気に広くなった。
ドアが開き、乗客がスムーズに通れるようになる。
スーツの男性が小さく言った。
「最初からそうしてくれればいいのに。」
誰も反論しなかった。
車内は再び静かな空気に戻る。
私は自分の席に戻りながら、ふと思った。
子育てが大変なのは、多くの人が理解している。
だからこそ社会も少しずつ優しくなっている。
だがその優しさは、
「周りへの配慮」があってこそ成り立つものだ。
それがなければ、ただの迷惑になってしまう。
窓の外を見ながら、私はそう感じていた。