「本日は体調不良のため休業します」
その張り紙を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
私は三日前、この店で夫の誕生日ケーキを予約し、すでに8000円を支払っていた。夫は甘いものが大好きで、今年は仕事も大変そうだったから、少しでも喜ばせたくて、普段は頼まないような少し高めのホールケーキを選んだのだ。
そのケーキを受け取るために、仕事を早めに切り上げ、電車を乗り継いで店まで来た。
なのに――店は閉まっていた。
ガラス越しの店内は真っ暗で、ショーケースも空。ドアには無機質な紙が一枚貼られているだけ。
「体調不良で休業」
それだけだった。
一瞬、意味が分からなかった。今日は定休日ではない。予約もしている。しかも、今日は夫の誕生日当日だ。
慌ててスマホを取り出し、店に電話をかけた。
……出ない。
もう一度。
出ない。
三回、四回、五回。
呼び出し音だけが虚しく続き、最後は留守番電話に切り替わった。
嫌な予感がして、Instagramの公式アカウントにもメッセージを送った。
「本日予約している◯◯ですが、お店が閉まっています。
どういう状況でしょうか?」
既読はつかない。
胸の奥がじわじわと冷えていく。
夫の誕生日は今夜だ。ケーキがなければ、用意していたサプライズは全部崩れる。
店の前で立ち尽くしながら、私は何度もスマホの画面を見た。
返事は来ない。
そのまま三時間が過ぎた。
もう別の店でケーキを買うしかないかと諦めかけた、その時だった。
――通知が鳴った。
店のアカウントからの返信だった。
震える指で開く。
そこに書かれていたのは、たった一行。
「ケーキは郵便受けの上に置いてあります」
……は?
一瞬、意味が理解できなかった。
郵便受けの上?
慌てて店へ引き返した。
店は相変わらず閉まっていた。そして、入口横の郵便受けの上に――確かに、白いケーキの箱が置かれていた。
外に。
誰でも触れられる場所に。
冷蔵もされず、保冷剤も見えない。
箱の端は少し潰れていた。
嫌な予感がした。
震える手で箱を持ち上げると、明らかに中で何かが偏っている感触があった。
恐る恐る蓋を開けた。
……言葉を失った。
ケーキは完全に横に崩れ、クリームは側面にべったりと張り付き、チョコレートのプレートは外れて転がっていた。
「Happy Birthday」の文字はクリームに埋もれ、ほとんど読めない。
これはもう、ケーキじゃない。
ただの壊れた塊だった。
しばらく、その場から動けなかった。
怒りと悔しさで、手が震えていた。
すぐにスマホで写真を撮り、店に送った。
「郵便受けの上に置かれていたケーキですが、完全に崩れています」
数分後、返信が来た。
「崩れたのは運送中かもしれません」
……運送中?
思わず声が出た。
運送なんてしていない。あなたが郵便受けの上に置いたんでしょう。
責任を認めるどころか、まるでこちらのせいだと言わんばかりの文章。
頭の中で何かが切れた。
「外に置いてあったものです。今から消費者センターに相談します」
送信。
既読はついた。
だが、返信は来なかった。
その夜、私は別の店で小さなケーキを買った。本来用意していたものとは比べものにならない、シンプルなケーキだった。
それでも夫は何も聞かず、「ありがとう」と笑ってくれた。
その優しさが、逆に胸に刺さった。
翌朝。
知らない番号から電話がかかってきた。
出ると、昨日の店だった。
「あの……昨日は本当に申し訳ありませんでした」
声は、明らかに昨日とは違っていた。低く、慎重で、何度も謝罪の言葉を繰り返した。
「全額返金させていただきます。それと、お詫びとして改めてケーキを無償で――」
なぜ、急に?
疑問に思いながらスマホを見ると、理由はすぐに分かった。
昨日、私が撮った写真と経緯を地域のコミュニティ掲示板に投稿していたのだが、それが一晩で大量に拡散されていた。
「これはひどい」
「ありえない」
「同じことをされたことがある」
コメントは次々と増えていた。
店は、無視できなくなったのだ。
数日後、正式に返金と謝罪があった。さらに「ご迷惑料」として追加の補償も提示された。
だが、私は新しいケーキの申し出は断った。
もう、その店を信用することはできなかったからだ。
一週間後、すべての手続きが終わった。
帰宅すると、夫がふと笑って言った。
「ケーキはなくてもいいよ。でも、ちゃんと戦ってくれて嬉しかった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
お金は返ってきた。
損失も補償された。
でも――
一度失った信頼は、もう戻らない。
あの日、郵便受けの上に置かれていたのは、ただの壊れたケーキじゃない。
店の「信用」そのものだったのだ。