介助中に突然「ガブッ」…腕を噛まれた。それでも手を離さなかった私に返ってきた言葉
「……っ!!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
その日、私はいつものように利用者さんの移乗介助をしていた。ベッドから車椅子へ移す、介護ではよくある作業だ。
「はい、ゆっくりいきますね」
背中をさすりながら、できるだけ落ち着いた声で声をかける。
「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいですよ」
すると利用者さんは小さく
「あい〜、ありがと〜」
と返事をしてくれた。
その瞬間だった。
ガブッ
腕に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず声が漏れそうになった。
見ると、利用者さんが私の腕に思いきり噛みついている。
歯が食い込んでいるのが分かる。
本能的に手を引こうとした。
でも——
今、手を離したらこの人は転倒する。
その一瞬で頭をよぎった。
利用者さんの体はすでに半分浮いている状態。ここで支えを失えば、そのまま床に落ちる。
転倒すれば、骨折だってありえる。
私は歯を食いしばった。
「……大丈夫、大丈夫」
痛みに耐えながら、なんとか体を支える。
噛まれたまま、ゆっくり体を回し、なんとか
車椅子へ座らせた。
ようやく体が離れた。
腕を見る。
そこには、すでに大きな紫色のアザが広がっていた。
「……はぁ」
思わずため息が出た。
正直、かなり痛かった。
でも、利用者さんはもう落ち着いた様子で、何事もなかったかのように座っている。
私は腕を押さえながら、事務所へ向かった。
「すみません、ちょっと見てもらっていいですか」
上司と同僚に腕を見せた。
すると——
「あ〜」
一人が笑いながら言った。
「私もありますよ〜、噛まれましたぁ〜」
別の同僚も言った。
「あるあるですよね〜」
私は一瞬、言葉を失った。
「……え?」
それだけ?
心の中で思った。
こんなに腫れてるのに。
正直、かなり痛いのに。
でも周りは、まるで
“よくある小話”
でも聞いたかのような空気だった。
「介護やってるとありますよ〜」
「慣れます慣れます」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、妙な感情が広がった。
怒りなのか、虚しさなのか、よく分からない。
私はふと思った。
……あの時、手を離せばよかったのかな。
もし手を離していたら。
利用者さんは転倒していたかもしれない。
でも少なくとも、
私は噛まれずに済んだ。
そんな考えが頭をよぎる。
その夜、家に帰ってからもう一度腕を見た。
アザはさらに広がっていた。
写真を撮ってSNSに載せた。
「昨年、移乗介助中いきなり噛まれた。手を離せば転倒するから耐えて車椅子へ。上司や同僚に見せたら“あるある”で終わった。」
すると、コメントが次々と届いた。
「それは労災じゃないですか?」
「普通に傷害事件では?」
「そんな職場おかしい」
「介護職の安全が守られてない」
「通報レベル」
中にはこう書く人もいた。
「介護職って、なんでここまで我慢するんですか」
その言葉を見たとき。
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
確かに。
なんでだろう。
利用者を守るのは当然。
でも——
職員は守られなくていいの?
介護の現場では、
殴られる蹴られる噛まれる
そんな話を、よく聞く。
でもそれが
「あるある」
で済まされるのは、本当に普通なのだろうか。
腕のアザを見ながら、私はもう一度思った。
あの時。
もし手を離していたら——
何が正解だったんだろう。
そしてもう一つ、頭に浮かんだ。
この業界で働く人たちは、
同じ思いを、何度しているんだろう。