朝、いつものように車を出そうとしただけだった。
本当に、それだけだった。
家の駐車場は、何年も使っている場所だ。
特に古いとも思っていなかったし、危ないと思ったこともない。
いつもの位置に車が停まっていて、いつものようにドアを開けて、いつものようにエンジンをかけた。
雨も降っていない。
地震があったわけでもない。
工事中でもない。
平和すぎる朝だった。
だからこそ、余計に油断していた。
ゆっくり車を動かした瞬間だった。
ゴンッ。
車体の下から、嫌な音がした。
次の瞬間、ふっと車が沈んだ。
「え?」
思わずブレーキを踏んだ。
心臓が変なところまで跳ねた。
段差に乗ったような感覚ではない。
タイヤが何かに引っかかったような感覚でもない。
沈んだ。
明らかに、地面が下に逃げた。
私は固まった。
駐車場で車が沈む経験なんて、人生の予定表に入れていない。
恐る恐る車を降りた。
そして、タイヤのそばを見た瞬間、声が出た。
「穴、あいてる……」
そこにあったのは、マンホールのような丸いフタだった。
いや、正確にはフタだったもの。
その一部が、見事に割れていた。
人が握りこぶしを突き破ったみたいな穴が、ぱっくり開いている。
中は黒い。
思ったより深そうで、妙に怖い。
さっきまで私の車の重さを受け止めていた地面が、突然「もう無理です」と退職願を出した感じだった。
私はしばらく、穴と車を交互に見た。
朝から情報量が多すぎる。
昨日まで普通の駐車場だった場所に、今日だけダンジョンの入口ができている。
しかも自宅。
最悪だ。
家族を呼ぶと、みんな同じ顔をした。
最初は「何してんの?」という顔。
次に「え、ほんまに穴?」という顔。
最後に「これ笑っていいやつ?」という顔。
私も同じ気持ちだった。
怖い。
でも、ちょっと笑うしかない。
車は少し傾いている。
タイヤの近くに穴。
これ以上動かしたら、余計に悪化しそうだった。
私はその場で車を止めたまま、管理会社だか業者だか、とにかく連絡できるところへ電話した。
「家の駐車場に穴があきました」
言いながら、自分でも変な説明だと思った。
電話の向こうも一瞬黙った。
そりゃそうだ。
普通は「水漏れしました」とか「鍵をなくしました」とかだろう。
いきなり「駐車場に穴」は、なかなかの初手である。
状況を説明すると、相手は写真を送ってくださいと言った。
私はスマホを構えて撮影した。
画面越しに見ても、やっぱり穴だった。
加工なし。
演出なし。
ただただ、駐車場が負けている。
写真を送ったあと、私はまた穴を見つめた。
考えれば考えるほど怖くなる。
もし人が歩いている時だったら。
もし子どもが足を乗せていたら。
もし夜で気づかなかったら。
車が沈んだだけで済んだのは、ある意味かなり運がよかったのかもしれない。
そう思うと、さっきまでの笑いが少し引っ込んだ。
地面は信用しているから怖い。
普段、私たちは足元を疑わない。
駐車場のフタなんて、ただの丸い模様くらいにしか思っていない。
でも、その下には空洞があり、フタには寿命があり、ある日突然、限界が来る。
まさかその「ある日」が今日だとは思わなかった。
近所の人も通りかかって、穴を見て驚いていた。
「え、そんなことあるんですね」
私も聞きたい。
そんなこと、あるんですね。
誰かが「モグラでも出たんですか」と冗談を言った。
私は笑った。
でも、内心はまだドキドキしていた。
車の下に何か異常がないか。
タイヤは大丈夫か。
車体は傷ついていないか。
朝から一気に確認事項が増えた。
本当なら、コーヒーを飲んで、普通に出かけるだけの朝だったのに。
気づけば私は、駐車場の穴を見張る係になっていた。
業者が来るまで、誰かが踏まないように周りに物を置いた。
車は動かさず、慎重に対応することになった。
その間、私は何度も思った。
家の駐車場で車が沈むって、何。
道路の落とし穴ならニュースで聞くこともある。
でも、まさか自分の家の駐車場で、地面に裏切られる日が来るとは。
しかも、見た目は普通のフタだった。
昨日まで真面目に仕事していた顔をしていた。
それが今日、急に穴。
人間関係でもなかなかここまで急な裏切りはない。
夕方になっても、私はあの音を思い出していた。
ゴンッ。
そして、ふっと沈む感覚。
たぶんしばらく忘れない。
これから駐車場に入るたび、私は足元を見ると思う。
マンホールを見るたび、少し疑うと思う。
「お前、大丈夫か?」
そう心の中で確認すると思う。
今回の件で学んだことは一つ。
地面は、思っているほど絶対ではない。
そして、家の駐車場にも突然スリル要素が追加されることがある。
できれば人生のアトラクションは、自宅ではなく遊園地でお願いしたい。