嵐の最後の配信の日だった。
私はその日を何週間も前から楽しみにしていた。
チケットも自分のお金で買った。
子どものご飯も前倒しで準備した。
夫にも何度も確認した。
「18時からだけ見たいから、その間だけお願いね」
すると夫は軽く言った。
「分かった。子ども見とけばいいんやろ?」
その言葉を信じていた。
だから安心して当日を迎えた。
ところが——
18時直前になって空気が変わった。
夫が突然、
「駅ビル行ってくるわ」
と言い出した。
理由はユニクロ。
今日じゃなくてもいい。
今じゃなくてもいい。
それなのに、
なぜか今。
さらにパソコンを開いて、
急ぎでもない仕事を始める。
私は呆れて言った。
「じゃあ私は子どもと先に食べるから、私の分のご飯は作らなくていいよ」
すると夫は不機嫌そうに言った。
「俺だけ別で食べろってこと?」
「なんか冷たいな」
その瞬間、
頭が真っ白になった。
冷たい?
約束を破ろうとしているのは誰?
今日を楽しみにしていたことを知っているのは誰?
でも私は何も言わなかった。
もう疲れたから。
結局ご飯は遅れた。
ライブを見ながら食べていると、
「ライブって今しか見られへんの?」
夫がそう言った。
その瞬間、
私の中で何かが終わった。
嵐がどうとかじゃない。
ライブがどうとかじゃない。
私が大切にしているものを、
この人は何も大切に思っていない。
それが分かった。
そして同時に、
あることも思い出した。
夫が一番大切にしているもの。
ゲーム機だった。
平日は仕事から帰ればゲーム。
休日もゲーム。
娘が
「一緒に遊ぼう」
と言っても、
「あとで」
娘が
「パパ見て」
と言っても、
「今忙しい」
その繰り返し。
そのくせ隣に住む男の子には異常に優しい。
会うたびに頭を撫でる。
お菓子をあげる。
ゲームの話をする。
そして平気で言う。
「やっぱ男の子って可愛いな」
その言葉を聞くたび、
娘の顔が曇るのを私は見ていた。
でも夫は気づかない。
気づこうともしない。
嵐のライブから数日後。
夫は一泊の出張へ出かけた。
私は夫のゲーム機を取り出した。
丁寧に掃除した。
箱に入れた。
そして隣の男の子の家を訪ねた。
「いつも娘と仲良くしてくれてありがとう」
そう言って渡した。
男の子は大喜びだった。
翌日の夜。
夫が帰宅した。
そして数秒後。
家中に叫び声が響いた。
「ゲーム機どこ!?」
私はソファに座ったまま答えた。
「あげたよ」
夫は固まった。
「は?」
「誰に?」
私は静かに言った。
「隣の〇〇くん」
夫の顔色が変わった。
「勝手に何してんの!?」
「ふざけんなよ!」
私は初めて目を逸らさなかった。
そして言った。
「だってあなた、あの子の方が好きなんでしょ?」
夫が黙る。
私は続けた。
「娘より」
「私より」
「ゲームより大事なものなんて何もないんでしょ?」
夫は何か言い返そうとした。
でも言葉が出なかった。
私はさらに追い打ちをかけた。
「あの日覚えてる?」
「嵐のライブの日」
「何週間も前からお願いしてた日」
「あなた言ったよね」
『ライブって今しか見られへんの?』
私は笑った。
「ゲームって今しかできないの?」
夫は完全に黙った。
娘は隣でそのやり取りを見ていた。
そして小さな声で言った。
「ママ」
「ありがとう」
その瞬間。
私は思った。
あの日失ったのは、
嵐を見る時間じゃなかった。
夫への期待だった。
でも代わりに手に入れたものもある。
娘だけは、
絶対に軽く扱わせない。
その覚悟だった。
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