「新聞紙のインクって、食べ物に移りますよね?」
その声が聞こえた瞬間、私の手が止まった。
近所の直売所みたいな売り場で、私は夕飯用の野菜を探していた。
そこで見つけたのが、小松菜。
しかも、ビニールではなく新聞紙にくるまれていた。
値札は100円。
正直、私はちょっと好きだった。
昔の八百屋さんみたいで、なんか温かい感じがしたから。
葉っぱの緑もきれいで、量も悪くない。
「今日はこれで炒め物にしよう」
そう思って手を伸ばした、その時だった。
隣にいた女性が、店員さんを呼び止めた。
「これ、新聞紙ですよね?」
店員さんはすぐに、
「はい、小松菜です。新聞紙で包んで販売しています」
と落ち着いて答えた。
すると女性は、すぐに言い返した。
「いや、小松菜なのは見れば分かります。私が聞いてるのはそこじゃなくて」
その言い方で、空気が少し変わった。
私は小松菜を持ったまま、動けなくなった。
店員さんも一瞬だけ間を置いて、
「何か気になる点がございましたか?」
と聞いた。
すると女性は、新聞紙の端を指でつまみながら言った。
「インクですよ。これ、食べ物に移ったらどうするんですか?」
声が少し大きかった。
近くでトマトを見ていたおじさんまで、ちらっと振り返った。
店員さんは慌てずに、
「直接お召し上がりになる前に洗っていただく野菜ですし、葉の部分にベタッと触れないように包んでいます」
と説明した。
でも、女性はもう聞く感じではなかった。
「でも、知らずに買う人いますよね?」
「さっきも買った人いましたよね?」
「ちゃんと説明したんですか?」
一気に畳みかけた。
店員さんは少し困った顔をした。
たぶん、悪気があって新聞紙にしているわけじゃない。
ビニールを減らすためなのか、昔ながらのやり方なのか。
少なくとも私は、そんなに大騒ぎすることには見えなかった。
でも女性の声は、さらに大きくなった。
「これ、もし何かあったら誰が責任取るんですか?」
その一言で、売り場が完全に静かになった。
正直、私はそこで少しだけ迷った。
黙って小松菜を戻すか。
何も聞かなかったふりをして別の棚に行くか。
でも、手の中の小松菜を見たら、なんか戻す気になれなかった。
だって普通にいい小松菜だったから。
店員さんは、まだ丁寧に説明していた。
「ご心配でしたら、新聞紙ではなく通常包装のものもございます」
そう言って、別のカゴを案内しようとした。
それでも女性は引かなかった。
「そういう問題じゃないんです。こんなのを普通に並べるのがどうかって言ってるんです」
その瞬間、後ろにいた年配の男性がぼそっと言った。
「昔はみんな新聞紙だったけどな」
私はちょっと笑いそうになった。
でも女性は振り返って、
「昔と今は違います」
と即答した。
そこまではまだ分かる。
気になる人がいるのも分かる。
でも次の言葉で、私はさすがに引っかかった。
「こんなの買う人も、ちゃんと考えた方がいいですよ」
え。
それ、今まさに持ってる私に言ってる?
私だけじゃない。
周りの人も、明らかにその言葉に反応した。
店員さんもそこで初めて、少しだけ声のトーンを変えた。
「申し訳ありませんが、他のお客様への言い方にはご配慮ください」
静かだけど、はっきりしていた。
私はそこで、小松菜をカゴに入れた。
わざとじゃない。
でも、戻す理由もなかった。
すると女性が私の方を見た。
「買うんですか?」
私は思わず言ってしまった。
「はい。洗って食べます」
たったそれだけ。
でも、その場の空気が少し動いた。
後ろのおじさんが、
「じゃあ俺も一つ」
と言って、新聞紙の小松菜を手に取った。
さらに別のおばさんも、
「懐かしいね。うちも一つもらおうかしら」
と言った。
店員さんが一瞬、目を丸くした。
女性は何か言いたそうだったけど、周りが普通に買い始めたので、言葉が続かなかった。
店員さんは改めて、
「気になる方には通常包装のものをご案内します。
新聞紙包装も、今後分かりやすく表示を出しますね」
と丁寧に言った。
完璧な対応だったと思う。
強く言い返さない。
でも、必要なところではちゃんと止める。
そのバランスがすごくよかった。
結局、私はその新聞紙の小松菜を買った。
帰ってから水でしっかり洗って、油揚げと一緒に炒めた。
普通においしかった。
むしろ、いつもより少しだけおいしく感じた。
あの売り場で一番印象に残ったのは、新聞紙でもインクでもなかった。
不安に思うのは自由。
質問するのも自由。
でも、自分が不安だからといって、買おうとしている人まで見下すように言うのは違う。
店員さんが最後に貼っていた手書きの札が、またよかった。
「新聞紙包装です。気になる方は通常包装をお選びください」
その下に、小さく一言。
「小松菜は本日も新鮮です」
それを見た瞬間、ちょっとだけ笑ってしまった。
結局、その新聞紙の小松菜。
私が帰る頃には、ほとんど残っていなかった。
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