スーパーで息子を抱いて歩いていた。
妻は少し離れたところで野菜を見ていて、俺は息子を抱っこしたまま、カートの横に立っていた。
その時、冷蔵ケースのガラスに、妙に近い顔が映った。
最初は、たまたま後ろを通った人だと思った。
でも違った。
男は商品を見るでもなく、棚を見るでもなく、息子の顔をのぞき込むように、横からゆっくり近づいてきた。
距離が近い。
本当に近い。
知らない大人が、赤ちゃんの顔をそこまで見る必要あるか、という距離だった。
俺はすぐに振り向かなかった。
目を合わせたら、相手がどう出るか分からない。
息子を抱いたまま揉めるのだけは避けたかった。
だから、何も気づいていないふりをして、カートを少し押しながら野菜売り場を離れた。
惣菜売り場の方へ歩く。
すると、後ろから同じ足音がついてきた。
早歩きではない。
でも、離れない。
俺が棚の前で止まると、男も少し離れて止まる。
俺がまた歩くと、男も歩く。
その時点で、腹の中が一気に冷えた。
息子は何も知らずに、俺の服を握っていた。
この小さい手を見た瞬間、怒鳴るより先に、守る方を選ばないといけないと思った。
俺はスマホを片手で出して、妻に短く送った。
「店員さん呼んで。こっちに来ないで」
妻からすぐに返信が来た。
「わかった」
俺は息子の向きを変えた。
男側に顔が向かないように、息子を自分の内側へ抱き直した。
カートも、わざと自分と男の間に置いた。
男はまだいた。
今度は惣菜の棚を見るふりをしながら、顔だけこちらに向けている。
正直、声を出したかった。
「何見てるんですか」
そう言いたかった。
でも、こっちは片腕に息子を抱いている。
感情で動いたら負けだと思った。
数分後、妻が店員さんと一緒に戻ってきた。
店員さんは普通の声で、
「お客様、こちらの商品を確認させていただきますね」
と言いながら、自然に俺たちと男の間に入ってくれた。
その瞬間、男の顔が少し歪んだ。
そして小さな声で言った。
「見てただけだろ」
俺はそこで初めて、男の方を見た。
ただし、近づかなかった。
息子を抱いたまま、はっきり言った。
「見てただけの人は、売り場を変えても同じ距離でついて来ません」
男は何か言い返そうとしたけれど、店員さんがすぐに前へ出た。
「他のお客様が不安に感じています。
これ以上近づく行為はお控えください」
その言い方が、すごく冷静だった。
男はしばらく黙っていたが、舌打ちみたいな音を出して、出口の方へ歩いていった。
でも、俺はその場で安心しなかった。
店員さんにお願いして、会計まで一緒にいてもらった。
駐車場に出る時も、別のスタッフさんが途中まで見送ってくれた。
車に乗って、ドアを閉めた瞬間、息子が俺の顔を見て笑った。
その顔を見たら、やっと力が抜けた。
妻が小さく言った。
「目、合わせなかったのすごいね」
俺は首を振った。
強かったわけじゃない。
怖かった。
でも、父親になって分かった。
本当に守りたいものを抱いている時ほど、怒鳴るより、冷静に動く方が大事な時がある。
あの時、何も起きなかった。
でも、何も起きなかったのは、何もしなかったからじゃない。
目を合わせず、距離を取り、店員さんを呼び、息子を内側に抱き直したからだ。
大げさだと思う人もいるかもしれない。
でも、親はそれでいいと思う。
小さな違和感を見逃してから後悔するより、少し大げさに守るくらいでちょうどいい。
息子を抱いて歩く時、俺はこれからも周りを見る。
何もなければ、それでいい。
それが一番いい。
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