「……すみません。そこ、座ってもいいですか?」
妊婦マークをつけた女性が、つり革に指先を絡めたまま小さく息を吐いた。車内は朝の湿った熱気で、立っているだけで体温がじわじわ奪われる。
彼女の視線の先――優先席に“座っていた”のは、人じゃなかった。
ピンクのバッグ。
座面の真ん中にどっしり。まるで「ここは予約済みです」とでも言わんばかりに、微動だにしない。しかも荷棚は空いている。上を見れば、置ける場所なんていくらでもあるのに。
その隣に、高齢の男性。イヤホンを耳に差し、スマホの動画に視線を固定している。画面の明るさだけが顔を照らし、まるで現実から切断された人みたいだった。
女性はもう一度、同じ言葉を丁寧に繰り返した。
「……すみません。そこ、座ってもいいですか?」
男性は一瞬だけ目を上げた。
しかし、女性の妊婦マークが視界に入ったのか入ってないのか分からないまま、イヤホンを外すでもなく、視線だけをスマホに戻した。返事はない。沈黙だけが、あからさまに“拒否”として残る。
周りの乗客が小さくざわつく。
「荷物、置いてるだけだよね」
「優先席なのに…」
でも誰も踏み込まない。言葉にした瞬間、面倒に巻き込まれる気がして、みんな視線を泳がせる。優しさじゃなく、自己防衛の沈黙が車内に広がっていく。
女性は怒鳴らなかった。バッグに手を伸ばすこともしない。
代わりに、スマホを取り出した。指を数回滑らせ、画面を明るくする。表示されたのは、鉄道会社の「優先席のご案内」――そして「座席に荷物を置いて占有しないでください」という、ごく当たり前の一文。
彼女はその画面を、男性に向けて見せた。声は小さい。けれど、はっきり届く距離で言う。
「……このバッグにも、妊婦マークって付いてますか?」
一瞬、車内の空気が止まった。
刺々しい言い方じゃない。むしろ丁寧すぎるほど丁寧。でも、だからこそ逃げ道がない。
周りの人の視線が、いっせいにピンクのバッグへ集まる。次に、男性へ。次に、荷棚へ。――空いている。
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