朝の電車だった。いつもより少し混んでいて、でも立つほどでもない、微妙な混雑。私は座席を探して車内を見回した瞬間、違和感に気づいた。
座席の上に、大きなスーツケースがそのまま置かれていた。横向き。しかもキャスターが、思いきり座面に当たっている。
……え?そこ、荷物置き場じゃないよね?
一瞬、見間違いかと思った。でも違う。完全に「座席として使う場所」に、堂々とスーツケースが鎮座している。周囲を見ても、誰も何も言わない。ただ、チラッと見て、すぐ視線を逸らす。
正直、かなり不快だった。キャスターって、外をゴロゴロ転がしてきた一番汚い部分だ。そこに、これから誰かが座る前提の場所。でもまあ、最初から喧嘩したいわけじゃない。私はできるだけ穏やかな声で声をかけた。
「すみません、座席が汚れるので、スーツケースをどけてもらえますか?」
言い方も、タイミングも、これ以上ないくらい普通だったと思う。でも――返事はなかった。
聞こえなかったのかな、と思って少し間を置いた。それでも、何の反応もない。視線も合わない。
完全に“いないもの”扱い。
あ、これ、聞こえてないんじゃなくて、無視してるな。その瞬間、胸の奥で小さく火がついた。
周りを見ると、数人がこちらを見ている。でも、誰も口を開かない。「言ってくれてありがとう」でもなければ、「確かにそれはちょっと…」でもない。全員、黙っている。
私はもう一度、少しだけ声を強めた。
「座席なので、荷物は床にお願いします」
それでも、相手は微動だにしない。スーツケースも、そのまま。
その瞬間、頭の中で何かが切れた。ああ、これって「ルールの問題」じゃないんだ。「態度」の問題なんだ。
守らないことより、指摘されても平然としていられる、その厚かましさ。そして何より、それを見て見ぬふりする周囲。
車内の空気が、明らかに重くなっていた。誰かが咳払いをした。誰かがスマホを見るふりをした。誰も、助け船は出さない。
理性では分かっていた。ここで声を荒げたら、場の空気はもっと悪くなる。でも、じゃあこのまま黙ってやり過ごすのか?「おかしい」と思った側が、ずっと我慢するのか?
次の瞬間、言葉が勝手に口から出ていた。
「……いい加減にしてください」
それでも反応がないのを見て、私は思わず吐き捨てるように言ってしまった。
「帰れよ」
言った瞬間、自分でも驚いた。完全に感情だった。正義でも冷静さでもなく、ただの限界。
車内が、凍りついた。今まで無言だった周囲が、一斉にこちらを意識しているのが分かった。でもそれでも、誰も何も言わない。
ホームに着いて、ドアが開いた瞬間、私は立ち上がった。そのまま通路に出る……つもりだったけど、ふと足が止まった。
まだ、あのスーツケースは座席の上に置かれたままだった。
最後まで、どけなかった。最後まで、何も言わなかった。最後まで、「自分は悪くない」という顔だった。
私は一瞬だけ迷って、それから決めた。
黙って我慢するのは、もう終わりにしよう、と。
ドアが閉まる直前、私はそのスーツケースの一つを持ち上げて、そのままホームに降ろした。乱暴に投げたわけでもない。壊したわけでもない。ただ、“本来あるべき場所”に戻しただけだ。
「え?」という声が、背後で聞こえた気がした。
でも、もう振り返らなかった。
電車のドアが閉まり、列車はそのまま走り出した。ホームに残ったのは、私と、そのスーツケース。
さっきまで、あれだけ堂々と座席を占領していた荷物が、今は誰のものでもない顔をして、そこに置かれていた。
その瞬間、胸の奥にあったモヤモヤが、すっと消えた。
ルールを守らない人は、注意されても無視していれば勝ちだと思っている。
でも、本当に何も失わないのは、最後まで何もしない人じゃない。
行動しなかった人間は、何も変えられないだけだ。
今日、私は空気を壊した。場を荒らした。嫌な奴だったかもしれない。
でも、黙って耐えるよりはずっとマシだ。
公共の場っていうのは、「誰かが我慢してくれる前提」で成り立つ場所じゃない。
誰かが一線を越えたら、誰かが止めなきゃいけない。
今日は、たまたまそれが私だっただけだ。