夜の仕事でタクシーを流していると、いろんな客に出会う。酔っ払い、無口なサラリーマン、観光客。大抵は普通に目的地へ送り、料金を払って「ありがとうございました」で終わる。
でも、たまにいる。
「これは面倒だな」と直感する客が。
その日も夜遅く、駅前で一人の男を乗せた。
アラブ系っぽい男性で、スマホを見ながら目的地を伝えてきた。
距離は短い。
メーターが止まった時の料金は 900円。
特に何の問題もない、いつもの一回の仕事。
そう思っていた。
ところが、男は財布を開くと、手のひらに小銭をばらばらと出してこう言った。
「これしかない」
私は一瞬、意味が分からなかった。
トレイの上に置かれたのは、十円玉や一円玉ばかり。
どう見ても 900円には全然足りない。
「いや、料金900円なんですけど」
そう言うと、男は肩をすくめてもう一度言った。
「お金ない。これだけ」
さすがにイラっとした。
「いやいや、困りますよ。メーター料金なんで」
すると男は、少し考えた顔をしてから言った。
「家、近い。10分待って」
つまり、
“家に取りに行くから待て”
ということらしい。
正直、この仕事をしていると、こういう言い方はよく聞く。
でも経験上、こういう場合の多くは――
そのまま逃げる。
「いや、それはちょっと無理ですね」
そう言うと、男は不満そうな顔をした。
「10分だけ」
「いや、ダメです。料金払ってください」
しばらく押し問答が続いた。
男はずっと
「金ない」
「10分待って」
そればかり。
だんだん腹が立ってきた。
こっちはボランティアで走ってるわけじゃない。
しかも距離は短いとはいえ、ちゃんとメーター料金だ。
ふと男が車外に出ようとした。
その瞬間、私は言った。
「じゃあ警察呼びますね」
男の動きが一瞬止まった。
「え?」
「料金トラブルなんで、警察に来てもらいます」
私はそのままスマホを取り出し、通報した。
数分後、パトカーが来た。
警察官が二人降りてきて、事情を聞かれる。
私はメーターを指して説明した。
「料金は900円です。でもこの人、これしかないって」
警察官が男に聞いた。
「料金払えますか?」
するとさっきまで
「金ない」
と言っていた男が、急に態度を変えた。
少し声を低くして、私の方を見ながら言った。
「いくら払えば許してくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがプツッと切れた。
さっきまで
「お金ない」
って言ってたのに、
今は
“いくら払えばいい?”
?
つまり最初から、
払う気がなかっただけじゃないか。
私ははっきり言った。
「いや、許すとかじゃなくて、メーター料金です」
警察官も少し呆れた顔で言った。
「料金は払わないとダメですね」
男はしばらく黙っていたが、結局こう言った。
「コンビニ…ATM…」
近くにコンビニがあった。
警察官が言う。
「じゃあ一緒に行きましょう」
こうして、
警察官立ち会いのもとでコンビニへ移動。
男はATMでお金を下ろし、ようやく900円を払った。
本当にそれだけ。
たった900円。
でも、その間にかかった時間は30分以上。
支払いが終わると、警察官が私に言った。
「お疲れ様でした」
男は最後まで謝りもしなかった。
ただ無言でその場を離れていった。
私は運転席に戻りながら、思わず笑ってしまった。
最初は
「金ない」
次は
「10分待って」
最後は
「いくら払えば許してくれる?」
完全に舐めている。
でも残念だったな。
この仕事、そういう客は何人も見てきてる。
私はエンジンをかけ直しながら思った。
逃げ得なんて、そう簡単にさせるか。
そしてまた、次の客を探して夜の街へ車を走らせた。