「洗濯バサミくらいで大げさなんだけど?」
上の階の住人は、私の車に傷をつけておきながら、開口一番そう言いました。
その瞬間、私は本気で耳を疑った。
土曜日の昼過ぎ。
買い物から帰ってきた私は、駐車場に停めていた愛車のフロント部分に、細い引っかき傷が入っていることに気づいた。
しかも足元には、割れた大型の布団ばさみ。
明らかに、上から落ちてきたものだった。
「マジかよ……」
思わず声が漏れた。
ただ、不幸中の幸いだったのは、人に当たらなかったこと。
もし小さい子どもだったら。もし頭に直撃していたら。
そう考えると、ゾッとした。
私はすぐ写真を撮り、管理会社へ連絡した。
すると担当者は、少し困ったような声でこう言った。
「実は以前から、上の階のベランダ使用について、何件か苦情が出ておりまして……」
嫌な予感がした。
数十分後。
管理会社の人と一緒に、上の階の部屋へ向かった。
インターホンが鳴る。
出てきたのは、30代後半くらいの女性だった。
事情を説明すると、彼女は最初こそ驚いた顔をしたが、すぐに表情を変えた。
「え?でも、わざとじゃないですよね?」
いや、そういう問題じゃない。
管理会社の人が、落ちていた布団ばさみを見せる。
すると女性は、露骨に面倒そうな顔になった。
「そんな小さい傷、磨けば消えるんじゃないですか?」
――プツッ。
頭の中で、何かが切れた。
でも私は、怒鳴らなかった。
代わりに、静かに聞いた。
「ちなみに、ベランダから物を落とすのって、管理規約違反ですよね?」
その瞬間。
女性の顔色が変わった。
管理会社の担当者も、咳払いしながら言った。
「実は……以前も洗濯物の落下で、注意を受けています」
……やっぱりか。
しかも。
担当者が続けた。
「共用部分への布団干し、大型器具の使用も、禁止事項になっています」
女性は一気に黙り込んだ。
だが、本当に空気が変わったのは、次の瞬間だった。
管理会社の人が、スマホを確認しながら言った。
「あと、駐車場の防犯カメラに、落下の瞬間が映っていました」
女性の顔が、見る見る青ざめる。
さっきまでの強気が、完全に消えた。
「あ……いや……その……」
さらに追い打ちみたいに、隣の部屋の住人がドアを開けた。
「あぁ、またですか?」
場が凍る。
住人は呆れた顔で続けた。
「前も植木鉢落としてましたよね?」
終わった。
完全に、終わった。
女性は何か言い返そうとしたが、もう誰も味方しなかった。
すると奥から、旦那らしき男性が出てきた。
事情を聞いた瞬間、顔面蒼白。
そして、奥さんへ小声で言った。
「……だからやめろって言っただろ」
私はその瞬間、全部どうでもよくなった。
傷なんて、正直そこまで大きくない。
でも。
“謝らない人間”に、一番腹が立っていたんだと思う。
結局、修理代は保険で対応。
さらに管理会社から、正式な厳重注意。
その後。
あの部屋のベランダから、物が干されることは二度となかった。
そして数日後。
ポストに、一通の封筒が入っていた。
中には、短い手紙。
『この度は申し訳ありませんでした』
たったそれだけ。
でも最初から、その一言さえあれば、ここまで大きな話にはならなかったんだよな。
最近ほんと、“謝ったら負け”みたいな人、増えた気がする。
でも逆に、ちゃんと謝れる人って、それだけで信用できるんですよね。