「自由席なんだから、どう座ろうが勝手でしょ?」
新幹線の車内で、男はそう言いながら、裸足のまま前の座席に足を投げ出していた。
しかも、短パン姿。
汗ばんだ生足が、前の席ギリギリまで伸びている。
正直、かなり不快だった。
周囲の乗客も、ちらちら見ている。
でも誰も注意しない。
いや、“注意できない”のだ。
最近こういうタイプ、何を言っても逆ギレする。
「うるせぇな」「別に迷惑かけてねぇだろ」
そういう反応になる未来が、簡単に想像できたから。
俺は東京から新大阪へ向かう出張中だった。
疲れていた。
本当は静かに寝たかった。
だが、数分おきに、男の足が前の席に当たる。
前列のサラリーマンが、何度も肩を揺らしていた。
それでも男は、イヤホンをつけたままスマホを見続ける。
完全に“自分の部屋”。
その時だった。
通路側に座っていた小さな女の子が、母親に小声で言った。
「ママ……くさい……」
母親は慌てて、「しーっ」と口を塞ぐ。
だが、周囲には聞こえていた。
車内に、気まずい空気が流れる。
それでも男は動かない。
むしろ、ニヤニヤしていた。
“誰も文句言えない”
そう思ってる顔だった。
次の瞬間。
前の席に座っていたサラリーマンが、ゆっくり振り返った。
四十代くらい。
細身で、静かな雰囲気の人だった。
でも目だけが、妙に冷たかった。
「すみません」
男はイヤホンを外さない。
サラリーマンは、もう一度言った。
「あなたの足、ずっと座席に当たってるんですけど」
すると男は、面倒臭そうに顔を上げた。
「あ?」
周囲が一気に静かになる。
男は舌打ちした。
「神経質すぎだろ」
その瞬間だった。
サラリーマンが、静かにテーブルを指差した。
そこには、新幹線の注意書き。
『他のお客様のご迷惑となる行為はお控えください』
そして、通路の向こうから巡回中の車掌が来た。
どうやら、誰かが呼んでいたらしい。
車掌は状況を見るなり、すぐ男に声をかけた。
「お客様、足を下ろしていただけますか」
男は笑った。
「は?自由席だろ?」
すると車掌は、一切表情を変えずに言った。
「自由席でも、公共の場です」
その言い方が、妙に静かで、逆に刺さった。
周囲の視線が、全部男に集まる。
女の子まで、じっと男を見ていた。
さっきまで強気だった男の顔が、少しずつ引きつっていく。
逃げ場がない。
男は、ようやく足を下ろした。
だがその瞬間。
後ろの席から、小さく拍手が起きた。
一人、また一人。
気づけば、車内に微妙な笑いが広がっていた。
男は真っ赤になった。
イヤホンを耳に押し込み、窓の外を見る。
もう二度と、足を上げることはなかった。
その後、車掌が去る時、前のサラリーマンに小さく頭を下げた。
するとその人は苦笑いしながら言った。
「最近、“注意した方が悪い”空気ありますよね」
本当にそうだと思った。
迷惑をかける側より、注意する側の方が疲れる社会。
だからみんな、黙る。
でも、誰か一人が声を上げるだけで、空気は変わる。
新大阪に着く頃には、あの男は小さく縮こまっていた。
最初のあの態度は、どこにもなかった。
そして降り際。
さっきの女の子が、母親にこう言った。
「ちゃんと怒られる人いてよかったね」
俺は思わず、吹き出しそうになった。
ほんと、その通りだった。