「今月で最後です」
給料袋の入った白い封筒を差し出され、和寿子(かずこ)は小さくうなずいた。
七十歳。
この会社の廊下を、二十年間、誰よりも早く来て磨いてきた。
朝いちばんの静かな廊下。
モップの水音だけが響く。
「おはようございます」
そう声をかけても、社員たちはほとんど見向きもしない。
まるで空気のような存在。
見えない人みたいに扱われても、和寿子は黙って床を拭いた。
そして迎えた退職の日――。
翌朝も、彼女はいつも通り出勤した。
「今日で最後か…」
モップを握る手に、いつもより力が入る。
その時、社員食堂の奥から声がした。
「もう、そんなに早く来なくていいですよ」
経理の若い女性だった。
和寿子は少し笑って答える。
「早く来るのが、癖みたいなものでね」
いつものように廊下を磨き、窓を拭き、階段を拭く。
昼休みが近づいたころ、清掃室の扉がノックされた。
――社長だった。
「和寿子さん、少し時間ありますか」
「はい…何かあったのでしょうか」
社長は机の上に、そっと一枚の封筒を置いた。
白い封筒。いつもの給料袋とは違う、少し厚みのあるもの。
「これは退職金です。それとは別に……社員全員からの“気持ち”です」
和寿子は、封筒を開けるのが怖かった。
自分の二十年が、ただ静かに消えていくような気がして。
でも――開けた。
中には手紙が何枚も入っていた。
短い字、少し歪んだ字、丁寧な字。
いろんな文字が、彼女に向かって並んでいた。
「毎朝、誰よりも早く電気をつけてくれてありがとうございます」「廊下がきれいだと、気持ちが整いました」「おばあちゃんみたいに安心する人でした」「仕事で落ち込んだ日も、床がピカピカで救われました」
和寿子の手が震えた。
気づけば涙が、ぽたぽたと床に落ちていた。
「……私、役に立ててたんですね」
無関心だと思っていた人たちは、実はずっと見ていたのだ。
言葉にはしなかっただけで、ちゃんと心の中で受け取っていたのだ。
その日の夕方。
和寿子はいつものように道具を整え、モップを置いた。
最後に窓を拭きながら、ふと空を見上げる。
夕焼けがガラスに映って、廊下が少しだけ黄金色になった。
彼女の瞳も、同じ色に光っていた。
「明日もきっと、誰かの汗が始まるね」
去っていくのではない。
“次の人のために残す”という誇りを抱いて――。
退勤時間。
廊下には社員たちが並んでいた。
そして、拍手。
誰かが言った。
「和寿子さん、ありがとうございました」
和寿子は深く一礼し、ゆっくりと会社を後にした。
ポケットの中の小さな手紙を、ぎゅっと握りしめながら。
(働いてきて、よかった)
最後に、あなたに問いかけたい。
誰かの「見えない努力」に、今日ひとこと――「ありがとう」って言えますか?
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=-_BOlbDcFes,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]