「100円分だけでいいから、蕎麦を食べさせてくれませんか?」
その言葉に、たけしは手を止めた。
店の入り口に立っていたのは、ボロボロの服を着た老婆だった。差し出された手のひらには、擦り切れた硬貨が数枚。どう見ても、それが彼女の全財産だった。
ここは東京の外れ、細い路地にある古い蕎麦屋。祖父の代から続く店で、たけしは三十歳で跡を継いだ。しかし現実は甘くなかった。客足は戻らず、借金だけが増え、ついに今日、店を畳む決心をしたばかりだった。
「100円分なんて、器用なこと……俺にはできません」
思わずそう言うと、老婆の顔が少しだけ曇った。
たけしは胸が痛んだ。今日で終わる店。最後の片付けをしていたところだった。もう二度と、この暖簾を出すこともない。
――だったらせめて、最後のお客には。
たけしは厨房に戻り、いつも通りの一杯を作った。湯気が立ち、だしの香りがふわっと広がる。
器いっぱいに盛った蕎麦を、静かに老婆の前へ置いた。
「……え?」
老婆が目を丸くする。
「実は、今日で店を閉めるんです。最後のお客さんには、気持ちよく食べていってほしくて」
老婆は唇を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼした。そして何度も頭を下げながら、熱い蕎麦をすすった。涙が落ちても箸を止めない。まるでその一杯が、身体だけじゃなく心まで温めるかのように。
食べ終えると、老婆は立ち上がり、静かに言った。
「いつか必ず……このお礼をします」
その背中は小さく、頼りなく見えた。たけしは、それがただの“別れの言葉”だと思っていた。
数日後。
たけしは公園の片隅で、あの老婆を見つけた。
薄汚れた姿のまま、ベンチの端で身を縮めている。どう見ても、住む場所があるようには思えない。
見過ごせなかった。
「……よかったら、うちに来ませんか」
たけしがそう言うと、老婆は驚いたように目を上げ、少しだけ笑った。
その夜、たけしの家で温かいお茶を飲みながら、老婆はぽつりと言った。
「たけしさん。あなたの蕎麦は絶品です。でも……経営には少し工夫が必要ね」
「え……?」
「私は昔、いくつか会社を起こしてきたの。少しだけ、お手伝いしてもいいかしら」
――この人、何者なんだ?
たけしが半信半疑でいると、老婆は迷いなく続けた。
「商売っていうのはね。味だけじゃない。人の心に寄り添うことよ」
翌日から、老婆の指導が始まった。
接客の言葉、客の表情の読み方、常連の好みの覚え方。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください