「そのボロい時計、早くお持ち帰りください」
冬の午後、東京の高級時計店。
ショーケースに並ぶのは、世界最高峰の機械式腕時計ばかりだった。
そこへ一人の老人が入ってきた。
彼がカウンターに置いたのは、明らかに時代遅れの古い腕時計。
ケースは傷だらけ、文字盤もくすみ、革ベルトはひび割れている。
新人スタッフの黒田は、露骨に顔をしかめた。
「お客様、当店は最高級ブランドの正規代理店です」
「正直、そのようなボロ時計は扱いかねます」
老人は穏やかな声で答えた。
「修理をお願いしたいのですが」
黒田は鼻で笑った。
「修理? いや、もう寿命でしょう」
「諦めて新しい時計を買われたほうがいいですよ。
――買えるのであれば、ですが」
周囲の客たちがちらちらと視線を向ける。
店内の空気は、まるで老人を締め出すかのように冷え切っていた。
それでも老人は、時計から目を離さず、静かに言った。
「これは、私が初めて設計した時計なのです」
「今から50年前、何度も失敗して、ようやく完成させた試作第1号でした」
その瞬間だった。
「……今、設計したとおっしゃいましたか?」
奥の事務所から、顔色を変えた店長が飛び出してきた。
老人の顔をじっと見つめ、時計を受け取り、裏蓋を確認する。
次の瞬間、店長の膝がわずかに震えた。
「このシリアルナンバー……まさか……」
店長は震える手で、老人が差し出した名刺を受け取った。
――浅井 朗(あさい あきら)
日本の機械式時計を世界水準へ押し上げた、伝説の技師。
その名を知らぬ時計関係者はいない。
店長の顔から血の気が引いた。
「……浅井様……」
店長は深く頭を下げた。
「誠に申し訳ございません。業界全体の恥でございます」
そして振り返り、黒田を怒鳴りつけた。
「黒田! なんてことをした!」
「君は今この場で解雇だ。すぐに荷物をまとめて出て行け!」
黒田の顔は真っ青になった。
「え……店長……!」
「黙れ!」
「君は時計業界の神様を侮辱した」
「もう君に時計を扱う資格はない!」
黒田はその場に崩れ落ち、泣きながら頭を下げた。
「申し訳ありませんでした……」
「私が無知でした……どうか、お許しください……」
老人は静かに黒田を見下ろし、店長に向かって言った。
「彼を許してあげてください」
店内が静まり返る。
「時計も、人間も――
本当の価値は、外見では分からない」
「彼は今日、それを学んだはずです」
そう言うと、老人は時計を手に取り、静かに店を後にした。
黒田はその場に崩れ落ち、カウンターに額をつけたまま動けなかった。
――しかし翌日。
店には抗議の電話が殺到し、黒田は結局、自ら退職することになった。
一枚の名刺が暴いたのは、
老人の正体ではなく――
人を見下した者の、浅さだった。