あの日の夕方、私は玄関の前で立ち止まった。
いつもそこに置いてあるはずの小さなミニカーが、なくなっていたからだ。
赤い小さな車。どこにでもあるような、安いおもちゃだ。
でも私にとっては、ただの玩具じゃない。
それは――もう二度と会えない、息子が残していった物だった。
息子は車のおもちゃが大好きだった。家の中でも外でも、いつもそのミニカーを持ち歩いていた。
「ブーブー走るよ!」
そう言いながら、玄関の前でよく遊んでいた。
だから息子がいなくなってからも、私はそのミニカーを玄関の端に置いていた。
まるで、まだここで遊んでいるみたいに思えてしまうからだ。
けれど――
その日、そのミニカーが消えていた。
最初は、自分がどこかに片付けたのかと思った。でも家の中を探しても見つからない。
もしかして風で飛んだのかと思い、近くを探した。
でも、ない。
そのとき、ふと思った。
誰かが持っていったのかもしれない。
住宅街の通りだから、子どもたちもよく通る。
遊び半分で持っていったのかもしれない。
そう思って、私は一枚の紙を書いた。
玄関のガラスに貼った。
そこにはこう書いた。
「お願い。次のおかあさん。持って行った(ミニカー)返してください。子供の遺品です。」
怒る気にはなれなかった。
ただ、返してほしかった。
それだけだった。
次の日の午後、近所の道を歩いていると、ふと目に入った。
向かいの家の庭で、小さな男の子が遊んでいた。
そして、その手には――
あのミニカーがあった。
胸がドクンと鳴った。
私はゆっくり近づいた。
「その車、どこで見つけたの?」
優しく聞いた。
すると男の子は言った。
「お母さんがくれた」
私はその家のインターホンを押した。
出てきたのは、若い母親だった。
私はできるだけ落ち着いた声で言った。
「すみません、そのミニカーなんですが…うちの玄関に置いてあった物なんです」
すると彼女はすぐに言った。
「え?違いますよ」
「うちの子が拾ったんです」
私は少し困って言った。
「でも、それは息子の物で…」
すると彼女は少し不機嫌そうに言った。
「盗んでませんよ?」
「拾っただけです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し痛んだ。
でも私は静かに言った。
「そのミニカーの裏を見てもらえますか」
彼女は怪訝そうな顔をした。
男の子の手から車を取り、ひっくり返した。
そこには小さく油性ペンで書かれていた。
息子の名前。
その瞬間、彼女の表情が止まった。
沈黙が流れた。
私はゆっくり言った。
「息子が書いたんです」
「自分の車だって、わかるように」
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく言った。
「……知りませんでした」
私は首を振った。
「いいんです」
怒りよりも、ただ悲しかった。
私はそのミニカーを受け取った。
手の中に乗せた瞬間、胸が締めつけられた。
あの日、玄関で笑っていた息子の姿が頭に浮かんだからだ。
帰ってから、私は玄関の貼り紙を外した。
もう返してもらえたからだ。
紙にはまだこう書かれていた。
「子供の遺品です」
その文字を見たとき、私は思った。
世の中には、
知らないうちに誰かの大切なものを傷つけてしまうことがある。
それがどれだけ小さな物でも、
それは誰かにとって世界で一番大切な物かもしれない。
もしあのミニカーを持っていった人が、最初からそれを知っていたら――
きっと、違う結果になっていたのかもしれない。
私はミニカーをそっと玄関の棚に戻した。
そして、心の中で息子に言った。
「帰ってきたよ。」