共同生活のシャワー室が封鎖されたのは、月曜の朝だった。
ドアにはピンクのテープと、あの貼り紙。
——「シャワー室で大便をした人がいます」
一瞬、意味が分からなかった。
でも、読めば読むほど現実味が増して、胃の奥がじわっと重くなった。
「…え、マジで?」
廊下にいた数人も、同じ顔をしていた。
その中で、一番声を張り上げていたのが、あの人だった。
「ありえないですよね、普通に」
「こういうの、本当に無理なんですけど」
わざと周りに聞こえる声で、何度も繰り返す。
「女性としてどうなのって思います」
その言葉に、何人かが頷いた。
正直、私もその時は同じだった。
ただの非常識な誰かがやった、最悪の迷惑行為。
そう思っていた。
でも——
貼り紙をもう一度読んだ時、違和感が残った。
“左側の個室シャワー”
“本日利用できません”
“誰が掃除するんですか?”
やけに具体的で、やけに感情的。
ただの注意喚起にしては、書き方が妙だった。
その日の夜、私は共有の予約表を見た。
このシャワー室は、簡単な時間管理がされている。
完全な記録じゃないけど、誰がいつ使ったか、大体は分かる。
問題が起きた時間帯は、貼り紙の更新時間から逆算できた。
そこに並んでいた名前を、一つずつ見ていく。
そして——
一つだけ、引っかかる名前があった。
あの人だった。
「いや、でもまさか」
一度はそう思った。
だって、一番怒っていた人だ。
誰よりも強く“常識”を語っていた人だ。
そんな人が、わざわざ自分でやって、あんな貼り紙まで出す?
普通に考えたら、おかしい。
でも、
時間は一致していた。
しかも、その時間のあと、彼女だけが不自然に長く部屋に戻っていない。
さらに、翌日からやたらと“清潔さ”の話をするようになっていた。
偶然にしては、重なりすぎている。
私は、何も言わなかった。
確証がないまま指摘しても、ただの言いがかりになる。
それに——
あの人は、言い返すタイプだ。
感情で押し切るタイプ。
下手にぶつかれば、こっちが悪者になる。
だから私は、待つことにした。
そして、記録を取った。
シャワーの使用時間。
彼女の出入りのタイミング。
LINEグループでの発言。
全部、淡々と。
数日後。
また、あの話題になった。
「結局、誰なんですかね」
「普通に名乗り出てほしいんですけど」
あの人は、また同じように言った。
「こういうのって、黙ってる方もどうかと思います」
その場にいた何人かが、また頷く。
空気が、少しだけ“犯人探し”に傾く。
私は、そのタイミングで口を開いた。
「一つだけ、確認してもいいですか」
全員の視線が、こっちに向く。
あの人も、少しだけ眉を上げた。
「その日、〇時台ってシャワー使ってましたよね?」
一瞬、間が空いた。
「…え?」
「予約表、見たんですけど」
静かに続ける。
「時間、ちょうど重なってるんですよね」
その瞬間、
空気が変わった。
あの人の表情が、止まる。
「いや、でも…それは…」
初めて、言葉が詰まった。
私は、追い詰めるような言い方はしなかった。
ただ、淡々と事実だけを並べた。
「そのあと、しばらく戻ってなかったですよね」
「貼り紙が出た時間とも、合ってます」
誰も、口を挟まなかった。
沈黙が、重く落ちる。
あの人は、視線を逸らした。
そして——
それ以上、何も言わなかった。
数秒後、小さく「…ちょっと」とだけ言って、その場を離れた。
それ以来、彼女は共有スペースにほとんど来なくなった。
LINEでも、あの話題には一切触れない。
あれだけ“常識”を語っていた人が、何も言わなくなった。
真実は、結局はっきりとはしていない。
本人が認めたわけでもない。
でも、
あの沈黙と、あのタイミングで、
十分だった。
正直、思った。
あそこまで追い詰める必要、あったのかなって。
でも同時に、
あのまま誰も何も言わなかったら、
また同じことが起きてた気もする。
こういうのって、
どこまで踏み込んでいいんだろう。
正義って、
言った方がいいのか、黙った方がいいのか。
これって、
私、やりすぎだった?
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