あの会社は、いわゆるブラック企業だった。
終電が当たり前。
帰る理由を口にするだけで、空気が凍る。
「仕事が最優先」
それが絶対だった。
その日も、いつもと同じだった。
パソコンの音だけが響くフロア。
誰も帰ろうとしない。
その中で、ひとりだけ手を止めた人がいた。
先輩だった。
先輩:「すみません…早退させてください」
社長:「理由は?」
先輩:「娘が高熱を出したらしくて…」
その瞬間——
社長の顔が歪んだ。
「は?」
一歩、前に出る。
「貴様は医者かー!」
フロアの空気が一気に凍った。
「熱くらいで何だ」
「奥さんに任せればいいだろ」
「男だろ?仕事優先だ」
誰も、何も言わなかった。
いつもの光景。
でも——
その日は違った。
俺は、気づいたら口を開いていた。
「それ、おかしくないですか?」
全員の視線が、一斉にこっちに向いた。
社長がゆっくり振り向く。
「……なんだ?」
声が低い。
でも、止まらなかった。
「子どもが高熱なんですよね」
「帰るの、当たり前じゃないですか」
一瞬、沈黙。
社長の顔が険しくなる。
「仕事なめてるのか?」
「甘えるな」
圧が一気に強くなる。
でも、その瞬間——
妙に冷静だった。
ゆっくり、言った。
「仕事はいくらでもありますが、家族はひとつだけです」
——静まり返った。
キーボードの音すら止まった。
社長が、言葉を失った。
初めて見た。
あの人が、何も言えない姿を。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
やがて、社長は視線を逸らした。
そして、低く言った。
「……行け」
それだけだった。
先輩は何も言わず、頭を下げて出ていった。
その背中を、誰も止めなかった。
むしろ——
少しだけ、空気が軽くなった気がした。
その日を境に、
少しずつ変わった。
早退を笑う人はいなくなった。
「家族」という言葉を、
軽く扱う人も減った。
大きくは変わらない。
でも、確実に何かが動いた。
——それから数年後。
俺はその会社を辞めた。
普通の会社に転職して、
普通に働いている。
先輩とも、たまに連絡を取る。
あの時の娘さんは、もう小学生だ。
元気に笑っているらしい。
写真も見せてもらった。
あの時、帰ってよかったと、
先輩は何度も言っていた。
そして——
あの社長の話を聞いたのは、
そのさらに後だった。
定年退職したらしい。
あれだけ会社に人生を捧げた人。
誰よりも働いていた人。
でも——
退職してから、
急に連絡が来るようになったらしい。
元社員に。
「今度、飲まないか?」
「久しぶりに会いたい」
最初は、みんな驚いた。
でも——
誰も、行かなかった。
理由は簡単だった。
会社の外で、
あの人と関わりたい人がいなかった。
さらに聞いた。
家族とも、ほとんど関係がないらしい。
長年、仕事優先。
家庭は後回し。
気づいた時には——
もう戻れなかった。
ぼっちな自分に気づいたおじさんが、
「よし定年後は!」と思っても——
その時には、もう遅い。
誰も待っていない。
誰も戻ってこない。
仕事は残った。
でも——
隣にいるはずだった家族はいなかった。
あの時の言葉が、
頭に浮かんだ。
「仕事優先だ」
本当に、それが正しかったのか。
今なら分かる。
正解はひとつじゃない。
でも——
失ってからじゃ、
選び直せないものもある。
これ、どう思う?
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