店に入った瞬間、私は思わず足を止めました。
壁に貼られていたのは、かわいい鳥や花で飾られた「カップルサービス」の案内。
けれど中身を読んだ瞬間、笑うどころか、背中が少し冷たくなりました。
「別れ話になったら、そこからドリンク無料」
「ケンカになったら、女性のドリンク無料」
「男性が泣き始めたら、おしぼり使い放題」
そして一番下には、こう書かれていました。
「女性に途中で帰られたら、お会計が倍」
冗談にしては、妙に具体的でした。
私は彼氏に小声で言いました。
「これ、ちょっと変じゃない?」
彼は苦笑いしながら、「まあ、店のノリなんじゃない?」と言いました。
その時は、私もそう思おうとしました。
でも、その数分後。
彼のスマホに仕事の電話が入りました。
店の外に出て話してくる、と言って彼が席を立った瞬間、店員がこちらを見て笑いました。
「お姉さん、置いていかれたんですか?」
私は愛想笑いだけ返しました。
すると店員は、例の貼り紙を指差して言いました。
「このまま帰られたら、お会計倍ですよ」
その言い方が、冗談には聞こえませんでした。
私は静かに聞き返しました。
「本当に倍になるんですか?」
店員は肩をすくめて言いました。
「うちのルールなんで」
その瞬間、私の中で何かが切れました。
でも、怒鳴りませんでした。
こういう時に感情的になったら、相手の思うつぼです。
私はスマホを取り出し、貼り紙を撮りました。
メニューも撮りました。
テーブル番号も、店内の案内も、静かに記録しました。
彼が戻ってきて、私の顔を見た瞬間に言いました。
「何かあった?」
私は短く答えました。
「会計の時、面白いことが起きると思う」
そして予想通り、起きました。
会計時、伝票には頼んでいない項目が追加されていました。
「カップルサービス調整料」
私は店員に聞きました。
「これは何ですか?」
店員は笑いながら言いました。
「途中で彼氏さんが席を外されたので、一応」
一応?
その一言で、私の怒りは完全に冷めました。
冷めた怒りほど、強いものはありません。
私はその場で言いました。
「では、正式な明細を出してください」
店員の表情が少し変わりました。
「いや、そんな大げさなものじゃなくて……」
私は財布を閉じました。
「大げさかどうかは、請求した側が決めることではありません」
奥から店長が出てきました。
店長は最初、いかにも面倒くさそうな顔で言いました。
「あれはただの遊び心ですよ」
私は壁の貼り紙を指差しました。
「遊び心で料金を上げるんですか?」
店長は黙りました。
私は続けました。
「女性が途中で帰ったら会計が倍。男性が怒れば女性のドリンク無料。これをサービスと呼ぶんですか?」
周りの席が静かになりました。
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