あの日のフライトは、正直かなり疲れていた。
出張帰りで、ようやく帰れると思って乗った飛行機。
席に座り、シートベルトを締めて、あとは離陸を待つだけだった。
その時だった。
数列前の席で、男性が大声で文句を言っていた。
「なんでこんな狭いんだよ、この席!」
40代くらいの男性。
通路側の席で、カバンを乱暴に押し込んでいる。
客室乗務員が丁寧に説明していた。
「申し訳ありません、離陸準備中ですのでお荷物は足元に――」
しかし男は聞く耳を持たない。
「いいから早く出発しろよ!」
機内の空気が少しピリつく。
日本の飛行機では珍しい光景だった。
周囲の乗客は目を合わせないようにしている。
「なんだあの人…」
そう思いながら私は窓の外を見ていた。
すると突然――
「煙!!」
後ろの席から声が上がった。
次の瞬間。
「バチッ!!」
乾いた音とともに、
さっきの男の足元のカバンから白い煙が上がった。
「えっ?」
一瞬、誰も理解できなかった。
しかし煙は一気に増え、次の瞬間――
火が上がった。
「うわああ!!」
機内が一気にパニックになる。
男は慌ててカバンを開けた。
中で燃えていたのは――
ノートパソコンだった。
リチウムイオンバッテリー。
火はどんどん強くなる。
「なんだよこれ!!」
さっきまで偉そうだった男が、完全にパニックになっていた。
客室乗務員がすぐに駆けつける。
「下がってください!!」
耐火袋と消火器が運ばれてくる。
機内には焦げた匂いが広がった。
私はその光景を見ながら、背筋がゾッとした。
もしこれが――
離陸後だったら?
そう思った瞬間、寒気が走る。
数分後。
なんとか火は抑えられた。
しかし座席は焦げ、綿が飛び出していた。
すると機長のアナウンスが流れる。
「安全確認のため、本日のフライトは欠航といたします。」
機内から一斉にため息が漏れた。
乗客は全員、飛行機を降りることになった。
私は通路を歩きながら、例の男の席を見た。
黒く焦げた座席。
そして男は、スタッフに囲まれていた。
どうやら問題は火事だけではなかったらしい。
地上スタッフの一人が言った。
「そのバッテリー、純正じゃありませんね?」
男は黙った。
「改造バッテリーの可能性があります」
周囲の乗客がざわつく。
「え…?」
さらにスタッフが続ける。
「機内持ち込み規定違反の可能性があります」
その瞬間、さっきまで威張っていた男の顔色が変わった。
周囲の乗客から冷たい視線が集まる。
そして誰かが小さく言った。
「さっきあんな偉そうだったのに…」
男は何も言い返せない。
結局そのまま、スタッフに別室へ案内されていった。
私はターミナルへ戻りながら思った。
確かに今日は予定が全部狂った。
フライトは欠航。
ホテルを取り直し。
仕事の予定も全部変更。
でも――
あの焦げた座席を思い出す。
もしあれが空の上だったら?
そう考えると、隣を歩いていた乗客がぽつりと言った。
「まあでもさ」
少し笑いながら続ける。
「離陸前で燃やしてくれたおかげで、全員助かったってことだよな。」
私は思わず笑ってしまった。
確かにそうだ。
あの男は、
飛行機を止めた迷惑な乗客だった。
でも同時に――
全員の命を救った“最悪のヒーロー”だったのかもしれない。
そう思いながら、私はもう一度だけ振り返った。
焦げた座席のある飛行機が、静かに滑走路の端に止まっていた。
そして心の中でつぶやいた。
「……本当に、離陸前でよかった。」